『そだね~』より、『なんも~』の方が使う気がする。って話。
タイエーに貼ってあった( ̄▽ ̄)
「そだねー」が方言だと知った父
私の父は根室の出身だ。私も幼少期は根室で過ごしたので「なんかなまってる?」と、時々に人に聞かれるのは恐らく根室弁なんだろうと思う。川崎に転校してきた時、「なんか北海道弁喋って!!」と、クラスメートに聞かれて困ってしまった事があった。大阪弁みたいに分かりやすいものもないし、せいぜい、「~っしょ」「~かい?」「~さ」って語尾に付くくらいしかない。と、思い込んでいた。私も父も。平昌オリンピックのカーリングで「そだねー」がクローズアップされ、内地の人(本州の人)は言わないということが明らかになり、
「『そだねー』って北海道弁だったんだ、、、」「いやー知らなかったよね~」
「そだねー、、、あっ、、、そだねーって言っちゃった、、、www」
と、北海道弁の呪縛に捕らわれていることが明らかになった。
が、、、私達は知っている、、、「そだねー」なんかより北海道民が使う言葉を。
北海道民の「なんも」は関西弁の「なんや」に似ている
Twitterでセリフが「なんや」しかないマンガを読んだ。「なんや(なんだ!)」「なんやなんや(何があったんだ?)」「なんやなんや(何が起こったんだ?)」と言うように、「なんや」一つで沢山の意味を持たせることが出来る。それは北海道弁の「なんも」とも同じで。今日、祖父の墓参りをする前に親戚のおばさんが家に訪ねて来た。
「あ、これから出かけるとこだった?ごめんねー」
「いやなんもだよ(全然大丈夫だよ)!お寺で(お供物を)下げてくるだけだよ!なんもなんも~(大丈夫大丈夫)」
「いやいやなんもさ(ちょっとさ)、なんも(特に)用事ないんだけども近くまで来たからさ、なんも(そんな)大したものないんだけどさ」
「なんも(何にも)持ってこなくていいのにさー!なんも(気を使わせてごめん)だよー!」
この祖母と親戚のおばさんとの30秒足らずの会話で果たして「なんも」が何回出てきたんだろうか。それも全て文脈によって意味が違うのである。それを北海道民は瞬時に判別して会話をする。「なんも」は関西弁でいう「なんや」に匹敵する程、柔軟性がある言葉なのだ。
「なんも」の背景にあるものとは
そんな様々な意味を含む「なんも」だが、諦めの意味で使う場合も多い。
「なんもさ、ロシアに騙されてるだけでなんも島なんて還ってこないのさ。」
政治経済に詳しい親戚のおじさんが言っていたセリフである。この時の「なんも」は「どうせ」「何にもならない」という悲観的な意味合いが含まれている。プラスの意味も、どこか諦めているような意味もあるのが、関西弁の「なんや」にはないニュアンスであり、大きな違いである。では何故「なんも」に諦めているような意味が含まれているのだろうか。
人間は自然の前では無力であるという諦め
私は根室以外の場所に行ったことがないので根室のことしか分からないけれども、車を走らせれば鹿は飛び出てくるし、風は強いし海は荒れる。雪も降るし氷点下にもなる厳しい場所だ。霰が顔に当たっていたいので友達と後ろ向きに歩いて小学校に通ったこともある。北海道の大半はそんな所だと思う。
生きているだけでも大変だし、天候は人間の思う通りにはならない。それは地球にいる以上は当たり前のことなんだけれども、北海道では特にその厳しさを目の当たりにして日々の生活を送っている人が多いのではないだろうか。流氷が来たら船は出せない。吹雪いたら車を運転できない。自然には抗うことなんて出来ない。しょうがないことは諦めるしかない。だから「なんも」には諦めの意味があるんじゃないか。道民の「なんも」には、自然に対する畏念が背景にあるのではないかと私は考える。いや、なんも知らないけど。
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