メリーさんのイメージの変遷
彼女が終戦後に愛する米軍将校と離ればなれになり、以来白塗りと純白のドレス姿で彼を待ちつづけた、という「神話」を表舞台に上げたのは脚本家の杉山義法である。
「本牧(あるいは鎌倉)の豪邸に住んでいる」
「子供がいて一緒に住んでいた時期がある。いまもその子のために立ちつづけている」
などという数ある噂のひとつに過ぎなかったものが、ドキュメント映画のヒットにより定説になってしまったのだ。
しかしこうなる以前は、彼女の伝説は刻々と変化をつづけていた。
*「なんちゃっておじさん」を若い人は知らないと思うので、必要に応じてググって下さい。
*アンセム5曲
物語が原型から書きかわっていくのは、伝承のよくある形の一つだ。彼女の物語は世の流れを反映して何度となく語り直され、彼女が表象するものは刻々と変化した。その変化に呼応するかのように、彼女の存在はより広く受け入れられていったように思う。
彼女を全国の幅広い世代に知らしめたのは映画『ヨコハマメリー』の功績である。負の遺産であるはずの原爆ドームが裏返って価値を得たように、メリーさんは愛される存在として輝きだした。しかし横浜において、あの映画を支持しているのは主に1995年以降に街を担った世代である。それ以前の高齢世代は鑑賞さえしていない。
1995年になにがあったか。オウムのサリン事件である。安全神話に冷や水を浴びせたこの事件をきっかけに日本は変わった。人々は寛容さを失い、社会規範に背を向けた異物を排除し始めた。彼女が横浜を離れたのはサリン事件の翌年だった。この同じタイミングで伊勢佐木町商店街の商店主たちがつぎつぎと引退し、代替わりしている。
『ヨコハマメリー』の観客たちは、商店街を継いだ人たちと同世代かもっと若い世代である。メリーさんを見知ってはいたけれど、直接交流がなかった世代と言い換えることもできる。
横浜の高齢者たちはおもしろいくらいこの作品を観ていない。彼らは彼女を戦争と結びつけて考え、乗り越えた過去として関心を払わなかった。シルバー世代の、特に男性にとって、いまも彼女は嫌悪の対象にほかならない。
一方観客は、この映画をメリーさんと彼女を支える人たちの交流を描く、ある種の「人情話」として受容した。世代によってメリーさんの受け止め方、意味合いがちがうのだ。
少なくとも横浜で「待つ女」としての彼女の物語を支持しているのは、圧倒的に中高年の女性だろう。男性たちは女性たちほど彼女に興味がない。いや、横浜以外の地域でも彼女に大きな関心を寄せるのは、女性である。
メリーさんが有名になったのは時代の綾にすぎない。横浜が港町のアイデンティティを失いつつあった時代に彼女は「港町のよすがを表象する存在」として再発見された。この当時、彼女のお相手は米軍兵士というよりも、むしろ外国人船員(いわゆるマドロス)だった。横浜ローカルの有名人だった頃、彼女の背後には港にまつわる文脈が息づいており、だから「港のメリー」だったのだ。
もし本牧基地が返還されずに温存されたままだったり、三菱造船所がみなとみらいに切り替わらなかったとしたら、彼女は単なる「町の奇人」として消費され忘れ去られただろう。仮に誰かが彼女にパンパンという「悲惨な過去」を投影したとしても、人々の共感は得られなかったと思う。つまり時代のみならず、都市のアイデンティティに深く食い込む存在だったのも良かったのだ。
彼女が横浜にたどり着いたのは全くの成り行きだった。中国地方出身の彼女にとって横浜は縁遠い土地である。元から特別な思い入れがあったわけではないだろう。しかしその歴史的な背景から、彼女はあまりにも横浜に似合いすぎた。
しかし映画がヒットして全国区の有名人になると、薄れゆく横浜のアイデンティティと結びつけた物語は、共感されにくくなっていく。
だから彼女は「戦争の犠牲者」として語られなければならなかったのだろう。
逆にいえば、彼女の物語はまだまだ変化の余地を残しているのだと言える。かつてのように社会の変化に応じて語り直されつづければ、彼女の神話は生き続けるかも知れない。