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作家・北方謙三から見たヨコハマメリー

「有名人の目撃談が入ると、横浜の人たちとの心理的距離感が出来てしまう」という編集者の意向により、拙著『白い孤影』から削除された記述がある。
小説家の北方謙三のヨコハマメリー目撃談だ。
著名作家が語る、ヨコハマメリーのイメージとは?

●金魚みたいな服を着たお姉さん

 北方謙三は、1992(平成4)年1月10日に東京の紀伊國屋ホールで講演会を行った。その際、こんなエピソードを披露している。

<僕の父親は船長で、1年のうち11ヶ月は外国航路についているような生活をしていました。つまり日本にいるのは1ヶ月だけなんです。帰国中の父親に会うため、母親と一緒に夜行の汽車で九州の唐津から横浜まで旅することが多かったのを覚えています。蒸気機関車で24時間ぐらいかかっていましたね。
 当時の横浜は今のようにおしゃれな所ではなく、とにかくバタ臭い所でした。華やかな部分もあったものの、ヤバい地区も存在していて、黒澤映画の『天国と地獄』そのままの世界。文字通り『地獄の口』が空いているような場所もありました。
 日ノ出町、黄金町、真金町なんてすごかった。ジャンキーが禁断症状起こして、震えている所なんかも見ましたよ。躰を縮めてお互いの顔なんて見ようともしない。きれいなお姉さんが服を引きちぎるようにして躰を掻きむしったまま倒れてしまい、そのままドブに半分はまってしまうところとか。昭和20年代初めのことですけどね(*注1)。
 父親に連れられて横浜の街を歩いていると、金魚みたいなひらひらした服を着たお姉さんが『キャプテーン』と言って走ってくることもありました。つま先まで真っ赤に染めて、化粧も仕草も本当にきれいで、僕が生まれて初めて『女だな』と意識した存在。当時の言葉で言うパンパン(*注2)だったんだけど、見たこともないほどきれいだったね。僕の父親は船長でしたから、部下を管理する責任があったんですよ。で、その彼女は『お宅のナンバー○○ボイラーがケンカしてたわよ』なんて、航海で寄る度ごとに報告してくれる人で『マリンさん』という名前でした。
 いまも横浜には『港のマリー』という人がいるんですよ(*注3)。いまこの季節は真っ赤なコートを着て歩いてるんじゃないかな。銀髪で後ろから見ると外人みたい。前から見ると髪を染めた普通のおばあさんだと分かるんだけど。
 あるとき、このマリーさんに会ってみたんです。後ろから『マリンさん』と声をかけたら振り向いて『はい?』……分かんないんですね。幼い頃見たマリンさんと(港のマリーが)同じ人かは分からない。千円渡して別れました。きっと彼女はもう現役ではなくて、酔客からお金をもらって暮らしているんじゃないかと思うんですね。
 昔、横浜にはマリーという名前の人がいっぱいいたと思うんです。『港のマリー』だけではなくて、『本牧のマリー』や『馬車道のマリー』もいたんじゃないかな>
 

 北方が「マリン」という名前と「マリー」という名前を区別していない点は興味深い。同様に年配者は「マリー」「メリー」「マリア」といった名前を区別していないことが多い。これは関東圏だけの傾向ではないらしく、関西でも同じような場面に遭遇することがあった。
 ヨコハマメリーに因んだ歌には「マリー」とか「マリア」という物が少なくない。それはこの辺りに起因しているのだろう。

*注 北方謙三は昭和22年生まれである。昭和20年代初めのことを記憶しているとは思えない。年号に関しては北方の記憶違い、もしくは言い間違いだと思われる。

*注2 昭和25、6年当時、移動証明書がなくても女性が働けるところはパチンコ屋と赤線くらいしかなかった。仕事の絶対量自体が少なく、雇用は男性が優先された。都会に出ても仕事にあぶれ、生活のために身を売った女は大勢いたと思われる。


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