企画書「頼朝もびっくり! 戦場で刀を使わなかったサムライたち〜まちがいだらけの鎌倉武士」
以下のような本を出したいのですが、興味のある編集者さんいますか?
(Web媒体の署名記事でもよいです)
ベースとなった取材記事は以下の通りです。
●企画概要
現在 NHK の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放映されている。そこで描かれているのは平安末期から鎌倉時代に掛けての武士団の姿だ。しかしそこで描かれているサムライの実際の姿は、我々がイメージするものとは大きく異なる。
具体的に言うと
・戦場で武士は刀を使わない
・重いと思われている鎧だが、実際は十二単よりずっと軽い
・東北の蝦夷にボロ負け。鎧兜は役に立たなかった
など、我々が想像するものと大きく違う。
こうなってしまった原因の1つは、我々が知る武士が戦国時代や江戸時代の武士の姿だからだ。それより400年昔の鎌倉武士のリアルな姿は、かなりちがうものなのである。
本企画では、現在放送中の『鎌倉殿の13人』に便乗する形で、知られざる中世武士の姿を伝えようとするものである。
●企画内容
・鎧は実用的な武具……鎧を着るだけなら2〜3分。直垂(ひたたれ)や小手などの具足を付けてもトータル5分程度。着物の着付けとは比べものにならないほど早く着られる。
・「甲冑って重いんだなあ。特に兜(かぶと)がずっしりくる」…という話がよくあるが、それは戦国時代の甲冑の話。種子島に鉄砲が伝来してから大きく変化したのが甲冑。鉄砲以前の鎧は軽い。具体的には10キロ程度。十二単は15〜20キロ。
・平安、鎌倉期の鎧は騎射戦を意識したつくりになっており、皮革製で軽い。走って戦えるようになっている。
・日本の鎧の元型は、じつは異民族である東北の蝦夷(えみし)の鎧。
弥生時代から奈良時代にかけては「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)と呼ばれる埴輪が着ている鎧(中国からの借用)を使用していたが、重すぎて戦いに不向きだった。大和朝廷の兵が蝦夷成敗に向かったとき、「重騎兵(大和朝廷の軍)」が攻めに行ったが、「軽い鎧を着たロビンフットたち(蝦夷の軍)」にこてんぱんにやられた、という感じになり、人数は多かったにも関わらず少数の兵に負けた。時期で言うと西暦774年から始まる「三十八年戦争」 の頃。
以後、蝦夷の鎧に習う形で「日本式甲冑」である「大鎧」が発展した。
・歴史博物館などで見かける鎧の多くは「復古調の鎧」で、実用品ではなく、美術品としてつくられたもの。戦乱が少なくなった江戸時代以降に造られたので、当時から見て100年以上前の鎧を再現している。見栄えを優先してあり得ない形にしたり、再現が間違っている点が見受けられる。
・当然「武士道は死ぬことと見つけたり……」の葉隠れ的な美学は、平和な江戸期のもの。鎌倉時代のそれはかなりちがう。
・侍には「朝廷の武官」と「地方豪族」の2種類のルーツがあり、特徴がまったく異なっている。いわゆる板東武者は後者。
・戦場での基本は敵が近づいて来る前に討つ。だから弓、薙刀、長巻など遠間から攻撃する武器が主流。「石投げ」も好まれた。刀は接近戦でしか使えないので、最後につかう武器。戦いの主役ではない。接近戦でも相撲や組み討ちに持ち込むことも多かった。
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上記の内容を甲冑師で鎌倉武士研究家の鎌倉智士さんに訊く、という体裁です。
鎌倉智士。2012年より鎌倉市にて鎌倉武者の姿でガイド業やイベント業を行う「鎌倉もののふ隊(https://izakamakura.jp/)」を主催。頼朝以前の鎌倉を舞台にした奉納演劇などの活動も行っている。
甲冑士としての顔も持ち、70領(鎧を数える単位)を超える「大鎧」を復刻。甲冑士のつくる鎧の多くが観賞用でディスプレイに特化しているのに対し、全国でも数少ない「着られる鎧」の制作者として、知る人ぞ知る存在。鎌倉時代の研究家でもある。
以上、もしご興味がありましたらこのページのコメント欄かeメールにて御連絡下さい。