舞踏とキャバレー:7 流れと時間と身体のせめぎ合いを見ていた
■7 流れと時間と身体のせめぎ合いを見ていた
武藤 我々が「舞踏とキャバレー」と聞いてすぐに思い浮かぶのは「金粉ショー」のイメージなんですけど、それから先程からなんどかお話が出ている「レズビアンショー」ですとか。どういったことがどういった空間で行われていたのか、イメージを持ちたいな、とずっと思っていたんです。
嵯峨 レズビアンショーは、初期の「スペースカプセル」の頃から芦川さんと二人でやっていました。
武藤 どういうことをされるのですか?
嵯峨 例えば「双子の姉妹」という設定で。夜双子の姉妹がおしっこした。そこから物語が始まる、というような設定ですとか。
武藤 それは「スペースカプセル」特有の路線なんですか?
嵯峨 「スペースカプセル」特有で、女性がレズビアンショー的なものを踊るところで玉野さんたちがニジンスキー。さんざん踊らされてましたね。
武藤 「レズビアンショー」という括りのなかでも単なる風俗ではなくてひじょうにアーチスティックで……。
嵯峨 コクトーの「大股びらき(*註 大股開きをしてそれを互いにからみあわせる、ということらしい)』それから何種類もの「手」がありますよね? そういうのを綺麗にやってました。
白塗りをしてスライドを当てるんですよ。輸出用のマッチのラベルのスライドとか。中村宏さん(* 画家 1932年生まれ浜松出身。東京造形大学客員教授)の絵のスライド……赤い雲や機関車ですとかセーラー服の少女ですとか。そういうものをバーンと当てまして、天井の方にもぱーんと当てたりして。
スペースカプセルのショーっていうのもすごく前衛的で、しかも洒落てて。ずっと後になって映像とダンスがコラボするっていうことが一般的になりましたが、ずっとずっと前からそれをやっているんですね。今から思うとものすごく進んでいたと思うんですけど。
武藤 どうしてマッチのスライドなんですか?
嵯峨 退廃的で面白いんですよ。奇妙で。
田野 発想がね、美術が違うのよ。土方さんのは、現実に見えてる範囲のなかの美なんていうレベルじゃないのね。見えないものを見えるようにするような表現だから。
嵯峨 「学研のアダジオ」というのを土方さんはつくったんです。
どうして「学研」なのかというと、70年に大阪万博がありましたよね。土方さんは北海道に行って踊りのフィルムを撮ったんです。生徒たちが同時に10人くらいほとんどツンひとつで絡んでアダジオするんですけど(*註)、男性が立っていると女性の身体が滑るように降りて行く。学習研究社の秋山さんという人が撮影を進めていたものですから「学研のアダジオ」という名前で呼んでたんですけど。男女が何組か絡んでいたのを曼荼羅風にしたのを画面いっぱいにして、それを万博で放映しているんですね。
この間(慶應大学土方アーカイヴの)森下さんの「土方巽を語る」で持ってきていたから、(今も記録映像が)あると思うんですけどね(*註)。
*註 北海道の屈斜路湖畔にある硫黄山で撮影された「誕生 アストラマのために」(脚本:谷川俊太郎 音楽:黛敏郎)のこと。この映像作品は大阪万博のみどり館で上映された。「アストラマ」とは、円形の天井全体をスクリーンにして上映するスタイルを指す。
*註 2016年1月21日に慶應のアート・センター主催のイベント「土方巽メモリアル30」(慶應大学三田キャンパス東館内 G-Sec Lab.)で谷川俊太郎のトークと共に上映された。
田野 「将軍」に行ったとき、(浮世絵の)春画を見ましたよ。あの時代から、男女と女同士は違うけれど、人間が他と絡み合う流れみたいなもの、土方さんは流れと空間と時間、そのせめぎ合いみたいなものを見ていた。
私は舞踏を「肉体の叛乱」から観ているけれど、背後から押し寄せてガーと出ていくという印象があってね。芦川さんが初めて「フランス座」に出るときに嫌がったので「俺は後ろから蹴りを入れた」って言うのね。そういう感じなのね。
嵯峨 土方さんは自分自身が舞台に上がって来ちゃいますもの。公演の話になりますけど、池袋の西武デパートの「スタジオ200」で土方巽の展示をするとき(*1985年)に、私たちの踊りが始まる訳じゃない? すると途中、客席からいきなり土方さんが上がってきて「お前らなにやってんだ!」って言うんだよね(笑
田野 その迫力たるや、やっぱり背後からカ〜って押すのね。押されていく間に、演者がそこ(作品世界)に入っていく訳よね。それは空間に合ったわね。将軍にも。
ちょうど亡くなる前にね、「恋愛舞踏派旗揚げ公演」をPlan Bでやったときに(*註 正確にはPlan Bで行われたのは「土方巽暗黒舞踏 映像構成と談話による」。田中泯と芦川羊子がデュエットし、土方が演出したのは1984年9月の第一生命ホールでの公演【「恋愛舞踏派」定礎」】)、あたしは女同士の絡みの方がずーと綺麗だと思った(笑 要するにね、身体自体が流れと時間のせめぎ合いがないと難しいんだ、ということですよ。だからレズビアンやるというのは、レズビアンの形だけを興味本位にやるんじゃなくて、ほんとにさっき仰ったみたいに絡みだと思うの。
嵯峨 そうですね。絡みって言うか、球体(*註)みたいにすーとこうなったりとか。
*註 二人の女性が向き合って床に座り、松葉崩しのように互いの足を絡め抱き合っている形を、土方たちは「球体」と呼んでいた。この形が左右に割れていくなどして動きが展開していく。
田野 さっきおっしゃったスペースカプセルに出てるときにね、ちょうどアメリカからどんどんリフトが日本に入ってきたの。……ニューヨーク・シティ・バレエ団にジェローム・ロビンズ(*註)という人がいて「檻」という作品を振り付けたんです。彼(土方)、「檻」のリフトを使うのよ。
*註 アメリカ合衆国のバレエ・ダンス振付家、演出家。ニューヨーク・シティ・バレエ団で「檻」(1951年)、「牧神の午後」(1953年)を、ブロードウェイで「王様と私」(1951年)、「ウエスト・サイド・ストーリー」(1957年)、「屋根の上のバイオリン弾き」(1964年)を振り付けた。50年代に「赤狩り」の対象となったことでも知られる。
田野 「檻」をやってるときの迫力。
あのときショークラブはほとんどそのリフトを使っていて、あたしが習ったリフトの先生も「檻」のリフトをやってたんだけど、まさにね、絡み合う訳。土方さんはね、モダンから入って安藤さんの所でかなり色々な(テクニックが)あったんですよ。
嵯峨 私たちも随分教えて頂きましたけどね。
田野 あれは力じゃ出来ないの。下地があって、津田さんがいて、それで大野先生がいらして、それを三つ巴に「カ〜」ってやって。
あたしは三条万里子(*註)さんの弟子ですが、「アルス・ノーヴァ」を主宰していた今井重幸という方の稽古場を借りているときに、土方さんの話を聞いた。やっぱり彼(土方)はバレエシューズ履いてダンスした。アルバイトも色々したって言うの。バレエシューズ履いて「魚の鱗が付いてるんだよ」って言うくらい。彼には1番から5番(*註 バレエの足のポジション)までバレエをやったっていう下地があるの。
*註 三条万里子はモダンダンサー。彼女が出入りしていた小劇場「アルス・ノーヴァ」にはヨネヤマ・ママコやスペイン舞踊の小松原庸子、フラメンコの小島章司、バレエの井上博文らのほか、土方巽も出入りしていた。
劇場オーナーの今井重幸は別名を「まんじ敏幸」といい、伊福部昭の弟子にあたる作曲家。土方巽のパフォーマンスに「舞踏」という言葉を当てた人物だとされる(「舞踏」の命名者には諸説あり、近年笠井 叡が命名者として名乗りを上げている)。
嵯峨 あたしが一番最初に稽古場に入ったときに教えられたのが、パです。
田野 その頃バレエの先生というのは「力入れろ。力入れろ」って教えたから、舞踏の人もあたしたちもそうだけど腿がパンパンな訳ですよ。いまはそんな人はいないんだけど(笑 時代が時代だから。だから踊りやってる人はみんなスタイル悪かったですよ。腿はパンパン、ふくらはぎはこんなでね。
だけど(日劇)ミュージックホールに出てる人たちは綺麗だった、という思い入れがあるのね。それで「将軍」へ行って女の子たちを見たら「畳み込んだ身体」っていうのはこういう身体なんだっていう。
日本人の持っている身体と西洋の文化が入って来たというなかで、彼はああいう作品をつくっていったんだろうし、時代を見てたんだろうし、土方さんが生きてたら果たして舞踏をつづけてたろうか、っていう疑問すら湧くくらいセンスの良さは素晴らしい。時間とリズム、音楽、人間の身体を見ていこうっていう。
ー構成・檀原照和ー