心と名前に火を持つ作詞家 〜阿木燿子
近年「昭和歌謡」が若者に人気です。
テレビやネット上で、時代背景や歌詞の奥深さ、ヒットの理由を分析と、若者目線でするどく解説。
片手にバイオレットフィズ(バブルの頃流行ったカクテル)、片手にマイクで、カラオケを熱唱していた昭和のバカ者な、若者だった私。「令和の若者は賢いのう」と感服しつつ、昭和歌謡の素晴らしさを再認識しています。
そんな私も、十数年前「この曲の歌詞はすごい!」と、衝撃を受けた曲が。
それは1976年のヒットソング、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「サクセス」。ラテンリズムの情熱的な曲です。
作曲はバンドボーカルの宇崎竜童さん、作詞は妻の阿木燿子さん。昭和の伝説のアイドル、山口百恵の黄金期を支えたヒットメーカー夫妻です。
窓辺にブラインドがある部屋で展開される愛の歌は、情景、表情、心の動き、男女の関係の進展まで、ありありと想像でき、まるで映画かドラマを見ているよう。歌が進むにつれ、男は女に魅了され、最後は女の手中に。
「作戦成功=サクセス」です。妖しく微笑む女の顔が浮かび、思わず鳥肌。
歌詞カードの文字数を数えてみると276文字。わずかな文字数で、濃密な世界を創りあげる才能に、私まで心をわしづかみされたのでした。
阿木さんの代表作である山口百恵のヒット曲を、改めて聴いてみると、その世界は独特で唯一無二。
「ドラマチックなストーリー」「愛に生きる、やさしくも強い主人公」「垣間見えるエロチシズム」「インパクトあるサビ」……。聴いているうちに「阿木燿子の世界」に引き込まれ、思わずサビを口ずさんでしまう。
まさに言葉の魔術師です。
作詞家、阿木燿子の才能と魅力の源泉は、どこからきたのか?
愛に生きる主人公たちは、どこから生まれてきたのか?
彼女の生い立ちが知りたくなりました。
阿木さんの本名は木村広子(旧姓:福田)。
1945年(昭和20年)長野県に生まれ、生後3か月で横浜に移り住みます。
チャレンジ精神旺盛で勇気があり、博学の父親は鉄工所を経営。女らしくやさしい母親は専業主婦。兄・阿木さん・妹の3人きょうだいは、京浜工業地帯の真ん中で育ちました。
幼い頃から英会話を習ったりと、ハイカラな家庭であった反面、兄のおかずが自分と妹よりも一品多い、という男女の育て方を分ける、男性優位の家庭でもありました。
人見知りが激しく内気で、家の中では内弁慶で意地っ張り。兄とけんかをすることもあった阿木さんに母は、「常に優しくありなさい。そうすれば必ず幸せになれるよ」と教えます。
その言葉に従いつつも、「どうして女の私ばかり折れなければいけないの」と、理不尽な思いを抱きます。
そんな母も、父とけんかをすることがありました。普段はやさしい父ですが、気に入らないことがあれば、母にすぐ怒鳴ります。現代であれば「モラハラ夫」と糾弾ものですが、昭和の家庭では珍しくない光景でした。
母も理不尽な思いを抱えていたのでしょう。「手に職があれば、お前たちを連れて出ていくのに」と自分を抱きしめる母の姿に「女性は自立すべきだ」と思うようになります。
家族のため、かいがいしく家事をこなす母の姿を見て育った影響か、料理と洋裁が好き。そして、人形作りと人形ごっこが大好きでした。
「作ってる人形に役柄を与えて、パートナーはどんな子がいいだろう、と思ってパートナーを作って。子供ができたら……といろいろ考えて一家が出来上がる。だから、あとから考えたら作詞もストーリー仕立てが好きだった」この頃からストーリーテラーの才能の片鱗をみせていましたが、意外なことに文学には興味がなく、作文は大嫌い。
しかし、幼い頃から言葉が好きで、言葉に対して敏感でした。
「子ども心にも無神経な言葉遣いをする人が嫌いだった。人の言葉ですぐ感動したり、傷ついたり、反応も激しかった」。
感受性が強く、創造力豊かだった少女は、見たこともない映画「裸足の伯爵夫人」というタイトルに、インスピレーションを受けます。
「優雅で野性的で繊細で大胆で、その上とてもセクシー。長い間、大人になったらこんな女性になりたいと憧れてきた。子どもの頃から、ただ優しくて可愛らしく、上品な女なんてつまらない、と思っていたということは、私はかなりおませで、女性の本質が逞しさと優しさを兼ね備えた ”しなやかさ” にあることを本能的に知っていたことになる」
幼いながらも「憧れの女性像」を心に抱くように。その憧れが、後の彼女の人生に大きな影響を与えるのです。
地元の小学校を卒業、母の希望で、横浜市内の中高一貫のお嬢様女学校へ進学。堅苦しく窮屈な女の園での学校生活は、辛い6年間でした。
「勉強と学校が大嫌いではあったが、登校拒否をする勇気もなく、鬱々とした気分を抱えながら、平々凡々な生活を送っていた」という阿木さんは、大学進学を希望します。「自由な中で学びたい」「自立した女性になりたい」という強い思いがあったのでしょう。
しかし当時の女子大学進学率はわずか5.1%。「大学は行かなくていい」という両親でしたが、浪人しないことを条件に受験、明治大学に合格します。
これまで両親に従っていた阿木さんが、初めて自分の意志と努力で、人生を拓いたのです。そして、これが人生の転機となるのでした。
初登校日、「軽音楽クラブに入りませんか」と、おしゃれなアイビールックの男子が声をかけてきました。男ばかりのキャンパスで、一際輝いていた阿木さんを見た彼は「僕のお嫁さんが歩いてきた」と運命を感じたのです。
「楽譜も読めないし、楽器もできない」と断りますが、「運命の女性を逃してはなるまい」と熱心に勧誘した彼の名は、木村修二。
後に夫となり、仕事上でもパートナーとなる、若き宇崎竜童さんでした。
大学生活は、学費を稼ぐためのアルバイト、軽音楽クラブの練習、宇崎さんとのデート、よその大学の映画サークルの映画に主演したりと、忙しくも充実した毎日を送ります。
恋人の宇崎さんは、屈託のない明るい人柄。彼が部室に入ると、まわりが明るくなり、笑い声が起きる人気者。そして誰よりも音楽に夢中でした。
新聞の見出しにまで曲をつけるほど、作曲に熱心だった宇崎さんは、友達、親兄弟、阿木さんにも「詞を書いて」と依頼するように。
作文が大嫌いな自分に詞が書けるなんて思ってもいませんでしたが、阿木さんの書いた詞は、宇崎さんの創作意欲を湧かせるものでした。
「他の人の詞とは異なり、一本筋の通った、これにどうやってメロディーをつけようかな? と挑みたくなる新鮮さがあった」と後に語っています。
大学を出た年、2人の曲がレコードに。宇崎さんの義兄が経営する芸能プロからデビューする、ジュリーとバロンのために作った曲です。
それを機に、母の知り合いの易者にペンネームを付けてもらいました。
後に歌謡界を席巻する「宇崎竜童」と「阿木燿子」の誕生です。
しかし、レコードは売れることなく、ジュリーとバロンはすぐに解散。
その後、宇崎さんは兄の会社やレストランで働きつつ、音楽活動を続けます。阿木さんは、企業の小冊子を編集する仕事や、コマーシャルモデルをしたりと「自立する女性」になる道を模索し続けます。もう、詞を書くこともありませんでした。
双方の両親から「そろそろ」とせかされ、結婚したのは26歳のとき。
結婚式の前日「……行きたくないの」と突然泣き出し、宇崎さんを困らせました。「自立した女性」になれないまま、結婚してしまうことが、悔しくて悲しかったのです。
結婚の翌年、宇崎さんが「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」でデビュー。「ハンサムでもなく、若くもない夫が、成功するはずがない」と反対するも、バンドのファン第1号となって応援。
バンド結成3年目に、宇崎さんとメンバーで作った曲「スモーキン・ブギ」がヒットします。阿木さんも、バンドのために詞を書くように。
「私のペンネームが燿子で、横浜育ちで、両親が横須賀に住んでいて……」ひらめきから生まれた言葉を思いつくまま書いた「港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ」が、1975年、日本中を席巻する大ヒット。
「アンタ あの娘の何なのさ」のフレーズは流行語となり、「阿木燿子」はヒット曲の作詞家として世に知られることに。
そのとき阿木さん30歳。ようやく「自立した女性」への道が開けたのです。
その後の阿木さんの活躍は、目覚ましいものでした。
夫のバンド以外の歌手に提供した曲も大ヒット。時のアイドル、山口百恵本人に乞われて、夫とともに曲を提供。
1976年山口百恵「横須賀ストーリー」でレコード大賞作詞賞、
1979年ジュディ・オング「魅せられて」で、日本レコード大賞を受賞。
名実ともに歌謡界を代表する作詞家となったのでした。
そして、彼女自身が、脚光を浴びることとなります。
1980年「自立した女」をテーマにした映画「四季・奈津子」が公開されました。メインキャスト「自由で性に奔放で魅力的な女」ケイ役で、阿木さんは女優デビューしました。原作者の五木寛之氏と監督が、パーティで阿木さんを見かけ「あ、ケイじゃないか、あれは!」と、大抜擢したのです。
「才色兼備の人気作詞家が、映画初出演で全裸シーンも!」と、センセーショナルで大きな話題に。父譲りのチャレンジ精神と勇気が現われた、35歳の決断です。
熱演が評価され、映画賞の最優秀助演女優賞を受賞。
何より「裸足の伯爵夫人」のようなケイに選ばれ、演じたことは、幼い頃から憧れていた女性になった証でした。
この映画を機に、映画やドラマのオファーが続き、CMや雑誌のグラビアにも登場。アラフォーの阿木さんは、眩しいほど輝いていました。
そして1986年中森明菜「DESIRE-情熱-」で、2度目のレコード大賞を受賞。
なりたいとも思わなかった作詞家になった阿木さんは、誰もが認める「作詞界の女王」となったのです。
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文学少女でなかったがゆえに、誰の影響も受けなかったことが功となり、独自の類い稀な想像力とひらめきから生まれる言葉で展開される、唯一無二の「阿木燿子の世界」。
阿木さんの歌の主人公たちは、愛を求め、自由に、セクシーに、自分の意思で、しなやかに生きる女たち。それは「裸足の伯爵夫人」のよう。
わがままで身勝手な男を許してしまう、やさしさと強さは「常に優しくありなさい。そうすれば必ず幸せになれるよ」と教えてくれた母のよう。
阿木さんの分身のような、懸命に生きる主人公の行く末を案じ、幸せになって欲しい、と歌を聴きながら思ってしまうのは、私だけではないでしょう。
人見知りで内気な少女は、大人になっても、心に小さな言葉の炎を抱き続け、詞を書くことによって、彼女自身も気づいていなかった、自分の中の炎をさらけ出し、私たちを魅了する詞を世に送り出しました。
「名は体を表す」と言います。「阿木燿子」というペンネームの中の「燿」は火へん。もしかすると「燿子」の中の「火」が誘い火となって、彼女の人生を輝く炎にしたのかも、と思ってしまうのです。
宇崎さんとの出会いが無ければ作詞家になることはなかったでしょう。
しかし、彼女が「作詞界の女王」となりえたのは、鬱々と平凡な毎日を過ごしながら、幼い頃からの「憧れや思い」を、忘れずに思い続けたから。
「こうありたい」と思い続けることは、決して無駄ではない、と阿木さんは教えてくれたのでした。
今年、78歳になった阿木さんは、作詞家として、夫・宇崎竜童さんのプロデューサーとして、活躍。これまで手がけた曲は1500曲以上。才能の源泉は枯渇することなく、現在も湧き続けています。
昨年、宇崎さんと一緒に作った「虹めいて」は、「泣き歌の貴公子」林部智史さんのために書いた、悩み多き現代人をやさしく励ますバラード。
しみじみ聴いているうちに、サビの「にじ~めぇぃてえ~」を、無意識に口ずさみ、穏やかな気持ちに。さすが作詞界の女王の力、衰えず、です。
阿木さんは、宇崎さんと100歳まで生きて、一緒に死ぬことが理想であり「作詞作曲家のコンビとして、全うしなければいけない使命があると思っています」と語る心の中は、今もメラメラと炎が輝いているのでした。
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何も使命を持っていない私も、心燃やし、耀いてみたい!
とりあえず、心燃やす歌「DESIRE-情熱-」を、明菜になりきって熱唱です!
♬炎のよおにぃ~燃えてデザイア~
ゲラッ、ゲラッ、ゲラッ、ゲラッ、バ~ニンハ~♪
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また、お会いしましょう。やんそんさんでした。
※参考書籍
大人になっても忘れたくないこと|阿木燿子著|書籍|PHP研究所
プレイバックPARTⅢ|阿木燿子著|書籍|新潮文庫
ブギウギ・脱どん底・ストリート|宇崎竜童著|角川文庫
※参考インタビュー記事
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「四季・奈津子」Wikipedia