見出し画像

幼稚園時代(2022年11月9日追記)

幼稚園(1959年3月~1958年4月)

和歌山大学学芸学部附属小学校のすぐ近くにある
岡山幼稚園に年長の1年間、通った。

幼稚園

年長は一組だけで「あやめ組」
黄色い帽子と上履きの袋、それに手提げ袋で持ち物は十分だった。

お遊戯室は後ろに持ち物を入れる四角い棚があり、それぞれ名前がひらがなで書いてある。指定の机や椅子はなかった。

手遊びやお話、紙芝居などで1日が終わった。午後は園庭で遊んでいてもいいし、帰ってもいい。
石蹴りやゴム跳びで遊んだ。
互いの陣地を結ぶ曲線上でじゃんけんで勝った方が前進できて、相手の陣地に着いた方が勝ちのゲーム。負けたら陣地に戻るのだが、多人数だとまず勝負がつかない。

幼稚園は家から離れていたので園バスは来なかった。
当時は市電が走っていたので権現前(ごんげんまえ)から県庁前まで電車で通っていた。市電はトロリー給電で、分岐では車掌さんがトロリーをひもを引っ張って下げ、分岐方向の架線にはめ直していた。
トロリーバスも一部走っていた
線路が分岐する和歌浦口駅前は空を見ると架線が蜘蛛の巣のように張られていた。

6月生まれなので、運動会では体力的に有利で障害物競走は1位だった。
昼食後に音楽が流れて昼寝タイムになり、講堂で寝るのだが、眠れず、これが永遠に続くかと思うほど長くていやだった。毎日緞帳(どんちょう)の「幼」の字を眺めていた。

水道で手を洗う時、「紙石けん」を持って来ている子がいて、わけてもらった。紙石けんはいろいろな薄い色に着色されていて、水のついた掌でこすっていると溶けてなくなり、泡だけが残るのがおもしろかった。

講堂に巨大な積み木があり、これでいろいろな建造物を作って遊ぶのが好きだった。立方体や直方体で橋桁を作り、上に薄い長方形の板を載せる。高い建物は三角柱や円柱を使う。積み木の種類は少ないが、積み木の数は講堂の壁一面を埋め尽くすほど大量にあった。

園庭にはすごく複雑な滑り台があった。滑り台のてっぺんに登るルートだけで2種類あり、てっぺんはカラーアクリルで覆われ、コンクリート壁は丸、三角、四角の穴が空き、これもカラーアクリル板がはまっている。滑り台はトンネルを抜けるもの、急勾配のもの、曲がりくねっているっものがあった。これもお気に入りで、小学生になっても、こっそりすべりに来ていた。

(NEW!)
両親が「汚い言葉がうつる」として地元の子どもと遊ばせなかった努力もむなしく、幼稚園に入学すると、私の使う言葉は「和歌山弁」になった。

(おまけ)
1980年、我々が移転してきたばかりの、つくば市の「吾妻小学校」は、東京から移り住んだ子どもが8割、地元の子が1割、外国人の子どもが1割の構成で、「標準語」vs「茨城弁」の覇権争いが繰り広げられた。
ある日、職員がぼそっと言った。
「もうダメだ。だって先生が茨城弁なんだ!」

友達

(NEW!)
和歌浦商店街の男の子が岡山幼稚園に通っていて、家が近くというだけでよく遊んだ。
家にも遊びに来て、一緒に積み木やプラレールで遊んだ。
ダイアブロック(レゴブロックではない!)が大量にあったので、家を何軒も作り、街にして遊んだ。

友達の家にHOゲージがあった。プラレールと違って本物そっくりだ。
さっそく貯めていたお年玉で祖母の駄菓子屋の向かいにある「和歌浦模型」でHOゲージセットを買った。
家で遊んでいると父親に見つかった。「返品してこい」と怒られて、返品しに行ったが、店主は全く取り合ってくれない。帰るに帰れずずっとそこにいたら、同じ年ぐらいの息子がやってきた。
「どうしたの?」
「おうちで怒られて、返しに来たの」
息子が店主に話を市に行くと、店主がやってきた
「まだ、こんなところにいたのか、早く帰れ!」
追い出された。以後、二度と和歌浦模型店には近づかなかった。
高松駅にある遠方の模型屋まで出かけていった。

遠足

遠足は日帰りで少し遠出する。友達を祖母のお菓子屋に連れて行き、好きなだけお菓子をあげた。私も好きなだけお菓子を持って行った。当時は高級品のバナナも持って行った。
国道脇に田んぼが広がり、国道の田んぼ寄りは土になっている。土の方が気持ちがいいので土の上を歩いていたクラスメイトが突然消えた。肥だめにハマっていた。私はただ眺めていたが、先生と本人はそのあと大変だったと思う。

路面電車

電車の線路を眺めるのが好きだった。
高松駅と和歌浦口駅間は線路に敷石がなかった。和歌浦口駅と新和歌浦駅、紀三井寺駅と海南駅の間は電車専用の軌道を走っていた。
この区間は特に好きで、並行して走る二本の線路を飽きもせず眺めていた。
敷石は傷むので頻繁に新しい敷石と取り替える。新しい敷石は軌道の横に積まれた。線路を交換する時もおもしろかった。
ときおり花電車が走った。花にすっぽりと覆われた電車に電飾が施されていて、子どもに大人気だった。

お正月

お正月に炭本家を交えて8畳間と4畳間の間のふすまを取っ払って百人一首の源平合戦を行う。紅白に分かれた取り手の前に各50枚の取り札を並べる。
読み手は私の母。
相手グループの取り札を取ると、相手に1枚取り札を渡す。先に取り札がなくなったグループの勝ちだ。
ぼくは小さかったので、真ん前に「をとめのすがたしばしとどめん」「みかさのやまにいでしつきかも」の2枚が置かれ、「あまつかぜ」「あまのはら」が聞こえたら取るように。他は任せろ。と指示された。
たまに、「取ってやろうと狙ってた」というお姉さんにかすめ取られたことがあった。

お正月は、女性はみな晴れ着。1ヶ月前から12月31日の髪結いを予約し、31日の夜は髪が崩れないように高い枕をして寝ていた。
紅白歌合戦は午後9時から午後11時45分まで。頑張って見るつもりだったが、始まる前に寝てしまっていた。
お正月は大勢の子どもを連れてたくさんの人が年始の挨拶に来る。お年玉は、基本同額なので、母が4人の子に100円ずつお年玉を渡すと、私のお年玉袋には400円が入っている。なのでお年玉だけで1万円ぐらいあった。

(NEW!)
年始は紀三井寺ではじまる。路面電車の紀三井寺駅からお寺まで急な階段を上る。階段は、段数を数えながら一気に登り切ってほめられた。子どもにとって、一段は高さがあり、足を大きく振り上げながら登った。
手水をし、絵馬に願い事を書き、破魔矢を買う。風車のような祝い物もあったように記憶している。おみくじを引く。大凶は桜の枝にくくりつける。女性はみな晴れ着姿で、男性も羽織袴が多かった。子どもたちも新しい洋服をおろして着た。

日食

太陽がほとんど隠れる「日食」があった。昼間なのにどんどん暗くなり、鳥がざわつき出す。かなり暗くなったと記憶している。

(NEW!)
雑誌「幼稚園」に、「日食はここ数年で数回あったあとは、21世紀まで待たないと日本では見られない」と書いてあった。
日食は小学校に入ってからも数回あったが、この時が一番暗くなった。
鳥がざわついたのはこの時だけだった

片男波

家のすぐ近くが片男波と呼ばれる海岸で、堤防が延々とつづいていて、犬の散歩でよく先端まで行った。
堤防の海と反対側に、大きな排水用の枯れ川があり、その町側にもうひとつ、背が高く、幅が50cmぐらいの堤防がある。犬を誘導して私の背丈以上ある堤防に走り登らせて遊んだ。
(NEW!)
堤防では海苔を四角くすだれに貼り付け、天日干しをしていた。
しらすも同じようにすだれの上に広げ、天日干ししていた。
突堤ではおじさんが魚釣りをしていた。よくあんなに延々と座っていられるなと思って眺めていた。

突堤の脇に砂浜が展開していて、よく「泥の堤防」を作って遊んだ。
まだ潮が満ちてこない距離に堤防を作る。堤防の前面に溝を掘り、海水が堤防を越しにくくする。
堤防の中に山やお城を作る。水を含ませた砂を手に握って垂らすと乾いて積み上がり、お城ができる。
山にトンネルを掘る。砂を深く掘ると、海水が湧いてくる。地下トンネルも作った。
おじさんがスコップを持ち込み、大勢で本格的に巨大な集落を作ったこともあった。
堤防で集落の周囲をぐるりと囲んだこともあった。
いくらがんばっても、最後は満ちてきた海水で跡形もなく壊される。
壊されると砂浜での遊びは終了し、家に帰った。

中洲で遊んでいると、いつの間にか片男波堤防側に海水が入り込み、中洲の回りが海水で囲まれている。あわてて堤防側に渡ったが、手前の水深が膝上まであってあせった。

堤防の先には松の木が一本だけ生えている「いっぽんまつ」があった。
家の前の小さい川には橋がたくさん架かっていたが、一番遠い橋は「たいこ橋」で、半円形で丸くなっていて、急角度で登り降りしないといけない。
橋の路面は石畳になっていて、滑り落ちにくい工夫がされていた。川に映る橋は中空の円を囲む「太鼓」に見えた。

台風が来て強風で海が荒れると片男波に行き、突堤の先端で、高く舞い上がる波しぶきを見ていた。
ある時、大きな波が突堤の上まで来て、這うように流れていった。
膝下ぐらいだったのに足をすくわれて突堤の付け根当たりまで流された。
海に落ちなかったのがラッキーとしか言い様がなく、その後は台風が来た時はおとなしく家にこもるようになった。

父の病気

父が結核にかかり、私にうつさないように2階にこもるようになった。
以後、家族旅行はできなくなった。

母が、飼い猫の「ミケ」に、「あんたがお父さんの代わりに病気を持って行ってくれたらいいんだけどね」と話したら、翌日家出していなくなった。
そのせいか、父は2階にこもっていたが、その後10年生きた

あとがき

年長のの1年間だけお世話になった幼稚園時代だが、今思い返せば充実していた

謝辞

家族にはほんと感謝している。
特に妻は、常識のない私を手取り足取り指導してくれて、社会に溶け込む手助けをしてくれた。まだまだ人の心は読めないが、頼りになる相棒である。


本noteは私の備忘録ですが、自由に読んでください サポートは、興味を持ったnote投稿の購読に使用させていただきます