二度目の出産
2020年は世界中のどの人にも印象的な年となった。
日本では「コロナ渦」と呼ばれだしたのが20年代の幕開けである。
既に音楽活動はしていたものの、00年代に女子高生だった私はミレニアル世代最強気分極まれりと、常時チュッパチャップスを口に入れ、一日中ブレードヘアの絡まりを気にしていた。そんな私ですら、1920年代の楽器を前に
「現在を00年代として、20年代はどうなっているかな。」と思いを馳せていた。
それは宇宙人の登場だ、とか、答えは1ドル紙幣の裏側にある、だのと話していた。
何かが変わる、変わらなくてはならない、そう話し続けて来た20年間であったが、こんな形で強制的に変わるとは大好きな預言書に書いてなかったじゃないか、という気持ちである。
2020年。
そんな中、私は晴れて第二子となる女の子を出産した。
少子化が叫ばれる中でも、いつでも待合は満席だった産科も、最初の緊急事態宣言が出された4月に入ると急激に閑散としだした。
先生とも透明なパーテーション越しの検診、また、発熱があると検診は受けられない旨や、月毎に「出産の立ち合いはできなくなった。」「面会も不可。」と出産時の条件が変わっていき不穏な空気が流れ出した頃だった。
目に見えない未知の存在に、どうすると感染するのか、また、どうすると防げるか、等、お医者様もわからず不安が増大している事が伺えた。
春の陽気とは裏腹に薄氷を踏むような日々。それでもつわりが少しずつ軽くなりお腹の子供はどんどん大きくなって。 上の子は乳児から幼児へ成長をする素晴らしい時期でもあった。
私自身、出生時には4000グラムあり、今の今まで「小さいね」と言われた事がないが、上の子は予定日よりずっと早くに産まれたのに3400グラムもある赤ちゃんであった。
幾たびも書いた様に、上の子の時は、出産どころか、赤ちゃんを迎える実感も、入院の準備すら何がなんだかわからなくて上手くはできなかったが、今回は違っていた。
私は、今まで放っておいていたが、「これがこうだからこうして下さい。」という説明が上手く入ってこない性質である事が、子育てを通して可視化され、それについてもさんざ悩んだ。
例えば「生後5カ月ごろから離乳食が始まるので栄養指導を受けましょう。」
これが意味不明なレベルなのである。
私にとって「5カ月後」というのを想像した事がなかったからだ。
もう人前で演奏する様になってそれこそ丁度20年が経つが、時間の縦軸を気にすることのないまま生きてきた。
ただ目の前に告知されるコンサートをこなし、あとは頭の中にしかない世界に浸って最高の時間を過ごしていた。
ところが、子供は、私の頭の中に土足というか、正確には裸足なのだろうが、全身で入り込んで来る。
第一子の時は突然現れた完璧な時計の扱いがわからず、産んでから1分たりとも一緒に横になり休むことができなかった。
「いつ泣くかわからないから」と、一日中膝に乗せたまま赤ちゃんの顔を見続け、気付いたら赤ん坊の頭を抱える左手の小指は手首ごと内側に捻転して固まって常に痺れていた。信じられないだろうが本当だ。
乳以外のものを口にさせるのが怖く、「5ヶ月」が過ぎても歯が生えるまで食事を与えるのを躊躇した。
そして、ついに飯を食わせる日には、震えながら粥を潰した。
それからは知っているかぎりの野菜を攪拌して恐る恐る子供の口へ運んだ。身の回りのテキパキと当たり前の様に生き生き育児を楽しむ人々に、私の震えが伝わらない様に努めた。鬱だったと思う。
それでも子供はよく笑い、よく食べ、私に似ず、おっとりと大きくなってくれた。
「女の子はお喋りでしょう。」
これも私を密かに悩ませた。うちの娘は表情やジェスチャー、自分で決めた呼称で用事を伝えこそすれ、最近3歳になるまで、これといって喋らなかったのだ。
だから育児トピックスを開けばすぐに出て来る「魔の2歳」だかなんだかというのはかえって恐ろしかった。彼女は全然「魔」ではないからである。
もちろん泣き叫ぶし、イヤイヤとも言う。
特別よくいう事を聞くわけでもないが、別にイヤイヤ言うくらいで魔ではなく、いつも彼女は彼女でだった。
彼女は教えてもいないのに私に朝を運んでくるし、むしろ風呂に入れてもらっているのは私な気がする。
夕方に飯を食い、なんならその前に既に風呂に入っていて、20時に消灯している人達がいることを子供を産んで初めて知った。
最初の緊急事態宣言が出た頃、融通の効かない私は、ようやくできる様になってきた公園遊びに行けない、何ができない、ということに非常に困惑し、ウイルスよりもそれが私のバランスを崩した。
んじゃ「ステイホームだね」と、母ならば誰でもできるんだろうと思っていたお菓子なんかしてみたけど、ちっとも作れなかったし、やっと焼いたお菓子には、子供は思った様に喜ばない。
そうこうしているうちに新緑が芽生え、2020年5月になる頃はいよいよ大きなコンサートは全て延期となった。季節は止まらないし、時間の経過が有り難くも残酷にも思えた。
そして夏。オリンピックのあるはずだった夏。
「そうだ。この子にはこれが一人っ子最後の夏なのだ」とたくさん甘やかし、下の子が生まれるまでの時間の過ごし方を考えた。
そう、私は初めて逆算をし始めたのだ。
「あとこれだけ時間が使えるな。」という感覚は、これまでの私には全くないものだった。
妊娠した自分の姿を残したり、出産後の退院に産まれてくる子供に着せる服、自分が着る服、化粧品まで用意ができた。
そして、臨月に入ったある昼下がりの事であった。
「これだけ時間が使えるな。」の中には「いくらでもダラダラしてよい。」ということも含まれていたので、私は平気で昼過ぎまで眠っていた。
まず起きて適当にLINEなんか見て返信して、「は〜あ!っと〜」と、やっと起き上がった時に「ッサー」と静かに破水した。
「あ、やばいやばい。」と言いつつ着替え、これが破水なのかなんなのか確認するために産院に電話した。
正産期を過ぎてからの異変は、まず病院に電話をすることとなっている。
上の子の時は、深夜3時に、確実な陣痛がわかったが、なぜだか息を潜め、その間隔を測り、2時間。楽な姿勢になったら終わる気がして1人椅子に座って我慢し尽くしてから病院に電話をした。結構危ないし、意味不明の行動なので決して真似をしてはいけない。今一度書くが陣痛がきたら病院に電話するようにして欲しい。
産科に電話が繋がると、陣痛間隔などを聞かれ、恐らく落ち着かせる為に色々と電話口で話をしてくれる。
上の子の時は時間の逆算ができなかったのでそ、陣痛の合間をぬって全く用意していなかった入院荷物を最低限纏め、そろりそろりと玄関へ向かい、エントランスを出て車に向かうと、夜が白んでいた。
家の椅子から車までの果てしない道のりを「陣痛ロード」と名付け、最初にそこを歩んだ事は忘れない。
しかし、下の子の時は痛みがないのだ。破水であろう水も大量に出たわけではない旨など説明しながら、私は化粧をした。
電話口の産科の助産師さんは
「痛くないんだ…。でも一応こよっか。入院道具も持ってきてね〜。」と話し、私は仕上げのチークを施した後、なんとなく仏壇としている場所の水を替え、時間的になんとなくおやつをお供えし、線香を焚いて手を合わせた。
車までの例の陣痛ロードを歩まなくてよくて、そして待ってましたとばかりの充実した入院道具に加え、陣痛の合間に読んでやろうと岩下志麻子先生の文庫も小脇に抱え、最っ高の気分で車に乗り込んだ。
病院に着くや否や「あ、産まれるね」と言われ、はいはい余裕っす、と、分娩台に上がった。
でもやっぱり控えめに言ってちょっと出産は痛い。
分娩台へ上がるとあの時の痛みが蘇る…と思いきや、全然痛くないのである。「痛い?」と聞かれ「いいえ。」と答えるも、鳥肌が立っているのを見た助産師さんは「うん、痛いよね。」と二人で大笑いした。
「本置いて?」と笑われ、確かに痛くなって来た頃、いきみの体制の最終調整を行う間、助産師さんがほんのわずか語尾に関西弁が覗いたのを私は聞き逃さなかった。
彼女の出身地を聞き、なぜだろう
「私、方言女子が好きなんです!」と告白すると、
「おっしゃ、ほんなら大阪弁でいくで!」とナイスアシストにより、なんと1時間15分、中だるみ無しの誰かに見せたいくらい充実したお産が終わった。
取り上げに来た院長に気を取られているうちにナイス助産師さんはスッと退室しており「かっこよ…。」と思った。
いつも不思議だった。
女性が一同に介すると、年齢問わずお産の話で大盛り上がりする事が。
でも今はよくわかる。
なぜならば、何度話しても飽きないのだ。
聞いている方は飽きるかもしれないが、話している経産婦は圧倒的に何十年も話し飽きないのだ。
2回経験した結果、私はお産が大好きだと言える。
コロナ渦である。
今回のお産は、最低限の人数の助産師さんで回し、知っている限り、私が産んだ産院では院長が一番常勤していた。
久しぶりに会った婦長の手はアルコール消毒のせいかボロボロになっていた。
前回は出産後大騒ぎだったので産後の入院ケアを延長した。そのため、多分助産師さんのシフト巡回を一巡したのだろう。懐かしい助産師さん達に嬉し恥ずかし会う事ができた。
その中に、一見厳し目でクールであり、超仕事人の助産師さんがいる。
私は覚えていても、向こうはこの三年間に何百人の妊産婦を診ているわけで、私も助産師さんから「あれ、矢野さん?」と言われない限りお久しぶりです系の雑談は避けていた。
すると、最後の退院の日の朝、その助産師さんは、なんのこともなく検温に入って来て、
「私、今日はこれで交代だから。矢野さん、また来てよ。」
と言ってほんの少しだけニコっとして颯爽と去っていった。
産科メンバー、格好良過ぎであった。
妊産婦はいうまでもなくデリケートだ。
私の様に、そして、今生きてこれを読んで下さっている皆さんの様に、当たり前に生まれて生きてこられなかった生命は多々ある。
しかもそれはそのほとんどが妊婦にはどうしようもない事情である。
「産まれる」という最も原始的にして最も難しく、最先端の医療を持ってしても、つわりの回避法すらないこと。
それくらい産まれる事は難しい。
産む事より産まれる事がうんと難しい。
単純な奇跡だと思う。
そして、生まれたての子供は完璧なのだ。
私たちがそれぞれ最難関だと勘違いしている自分の中にいるなくなる事はない不安。高めようと努力する自己肯定感。
そんなものは産まれたばかりなほど子供にとっては笑止なのだ。
堂々と自分の世話をさせて、全力で泣いたり笑ったりして愉快に暮らしている。
だから、多分、子供には産まれてから何をアウトプットさせようかと考えるより、いかに産まれたての全能を溢さないように、失わないようにしてやることが大切なのではないかと思う。
もう減ってしまった自らのそれらについて、親や環境を憎む時代は恐らく終わった。
なにも、人間の子供を産んで育てなくとも、小さい頃の自分か架空の環境を育てたらいい。
20年前に頭上の夢と足元の割れたアスファルトを交互に見て目を回していた私には想像想像も出来ない現在である。
まさか目に見えない物を育てなくてはならない時代になるとは想像もしなかった。
未だ収束する気配のない疫病に、今日も産科は変わらずフルスロットルである事は想像するまでもない。
0を1にする。
そして「また来てよ。」と言われる、恐らく唯一の科である神がかった産科の医療現場に触れて一番感じたのは、医師、並びに、病院食を提供したり清潔な空間を作って下さっていたいわゆる医療従事者の皆様の大きなたくさんの手であった。
2020年には言い尽くされている言葉である。
それが無責任だとの声も聞こえた。
でも、医者って凄いんだ。
ただただ、その一言である。
でもそれで結んでしまうと、産まれたて最強説は崩れてしまうのはまた今後のテーマである。
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