記事一覧
建武の新政 後醍醐天皇政権に加わった人々
建武の新政政権は、護良親王・足利尊氏・北畠親房など上層の人々と文観・楠木正成のように新興の人々で構成されていました。後醍醐天皇と護良親王、足利尊氏と新田義貞など政府内の不協和音が拡大し南北朝の争乱が始まります。
建武の新政 大学講師と高校教師のコラボ日本史
異形の王権と呼ばれる後醍醐政権。建武の新政において、後醍醐天皇・護良親王・足利尊氏はどのような位置にあるのかを考えます。
後小松上皇から後花園天皇へ 大学講師と高校教師のコラボ日本史
後小松上皇の子弟の称光天皇・小川宮は皇子を残しませんでした。後光厳流に後継者候補はおらず、足利義教と後小松上皇は崇光流伏見宮家の後花園を皇位継承者に選びます。
明徳の和約 大学講師と高校教師のコラボ日本史
1391年、明徳の和約によって南北朝の合一が実現します。しかし、北朝は義満と後亀山の合意に冷淡な態度をとり、南朝側の不満が後南朝といわれる動きを引き起こしました。
観応の擾乱Ⅱ 正平一統
観応の擾乱のさなか、足利尊氏は北朝を廃止して南朝に統合させ、鎌倉の足利直義攻撃に出立します。正平一統により、大覚寺統の朝廷と室町幕府による平和が実現するかと思われたのですが。
嘉吉の乱 大学講師と高校教師のコラボ日本史
足利義教が赤松邸の能楽の場で暗殺され、嘉吉の乱が始まります。赤松満祐に将軍を倒してからの青写真があったようには見えません、将軍暗殺の背景を考えます。
禁闕の変 大学講師と高校教師のコラボ日本史
1443年、後南朝勢力が御所に攻め入り、後花園天皇の元から三種の神器の一つ玉璽を奪い去りました(禁闕の変)。この玉璽を奪い返すことで赤松氏は加賀半国守護として復活します。
応仁の乱 大学講師と高校教師のコラボ日本史
細川勝元と山名宗全は連携して文正の政変を起こし伊勢貞親を追放します。しかし、1467年1月、山名宗全は畠山義就と手を組み、細川勝元が畠山政長を支援したため、応仁の乱が始まります。応仁の乱に至る数か月の動きから室町幕府の体制を考えます。
日野富子と応仁の乱 大学講師と高校教師のコラボ日本史
日野富子が応仁の乱の原因ではない、ということだけは明らかになっています。日野富子と足利義視は対立していたのではありません。では、何故、応仁の乱がおこってしまったのか。
応仁の乱Ⅰ 畠山家・斯波家の家督争い
細川勝元と山名宗全は連携して畠山家に対抗していました。畠山家で家督争いが始まると両者は畠山政長を支援します。その頃、斯波家でも斯波義敏と義廉が家督を争っており、嘉吉の乱で滅亡した赤松家は播磨守護の回復をめざしていました。応仁の乱の収束を困難にした畠山・斯波・赤松の事情を説明します。
応仁の乱Ⅱ 戦いの始まりから終わりまで
1466年、山名宗全は畠山義就と連携して幕府の主導権を握ろうとします。細川勝元は畠山政長を支援し、細川陣営(東軍)と山名陣営(西軍)の対立に。播磨守護職奪還をめざす赤松軍など有力守護が参戦、応仁の乱は長期化します。応仁の乱の始まりから終わりまでの10年間を時系列で追いかけます。