「自分」なんてなくても楽しくやっていける
最近「何者かになりたい」という発言を耳にしたり目にすることが割と頻繁にあります。年頃でいうと30歳前後の人が多いですね。
それを否定するつもりは毛頭ない、というか「それが活動の原動力になるのならぜひ頑張って下さいね」と思っていますが、僕自身についていえば、僕は「何者かになりたい」とは全く思っていません。
「何者かになる」って、めんどくさくないですか?
自分が何者かになるということは、何かしらの形で目立つことになるわけで、勝手に誰かからライバル視されたりする可能性があるじゃないですか。注目されたら一挙手一投足を監視されるようになる側面とかも。
もちろん良いこともありますけどね、僕の中でのメリット・デメリット分析でいくと「何者かになることは割に合わない」んですよ。
自分なくし
もっと気楽に生きていきたい。
気楽に生きるためにどうあればいいかというと、それは簡単で、「自分が何物でもなくなれば良い」んです。
つまり、自分をなくせば良い。
かといって「自分をなくす」というのは簡単なことではないです。
ただ堕落した生活を送るだけだったら、「使えない人」「要らない人」という不名誉な意味での何者かになってしまいますから。
自分がない、何物でもない、という状態は「良い意味での何者かである」と「悪い意味での何者かである」のちょうど中間なわけです。
絶妙なバランス感覚が必要になります。めっちゃ体幹を鍛えていないといけないんです。
働き方、人間関係、生き方、煩悩、欲求etc…そいういった様々な要素に対して自分でコントロールできるようにならないといけません。
そのためには、自分と向き合って、ひとつひとつの物事について、どうやったら自分をなくせるかの仮説を立てて、検証して、振り返って、というのを繰り返す必要があります。一生。
自分をなくして生きるというのは、実は何者かになるよりよっぽど難しいんです。あくまで僕の考えですが。
そうやって「何物でもない自分」を作り上げることが出来れば、目立つこともなく、自分のやりたいことをやりたいように出来るのだと思います。
自分のなくし方
具体的な実践の方法として、働き方における自分なくしは下記の本がめちゃめちゃ参考になります。僕もこの本に書かれていることは自然と8割くらいは実践していました。
自己の煩悩や欲求については、僕自身もいま模索中ですが、ヨガの思想がヒントになると思っていま本を読んでいます。
ヨガっていうと皆さんフィットネス的なものをイメージするかもしれませんが、あれって実はヨガにおけるすごく表面的な部分なんですよ。
「仏教って座禅のことでしょ?」と言っているようなものです。
ヨガはもともと思想ありきなんです。その思想を体得する一つの方法として様々なポージングや独特の呼吸法をするわけです。
ここを話し出すと長くなるのでもうやめますが、ヨガの思想とは何なのかというと、「自分というものをどんどん分解していくと、最後に残るのは"観測者としての意識"だけだよね」みたいなことが根っこにあります。
頭の働き、心の働き、肉体的な動き、そういったものをあくまで観測しているにすぎないよね、と。
そこに合点がいくと、「自分も他人もその他存在するものすべてはただの観測者じゃん、一緒じゃん」となって、「森羅万象はひとつながりだ」と至ることが出来るのです。たぶん。
たぶん、と濁しているのは、僕がまだヨガの思想を勉強し始めたばかりで、一応頭ではそう理解出来た程度だからです。断言できるほど悟りに至ってはいません。
まぁ、ヨガの思想は面白いので興味があればこちらの本を読んでみて下さい。
おわりに
こんな感じでですね、自分をなくしていくことが出来れば、気楽に生きることができるし、他者に対しても寛容になれるはずなんです。
なので僕は、これからせっせと自分をなくしていく努力をしていきます。
という宣言で締めくくらせて頂きます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
もしめちゃめちゃ満足して頂けるようなことがあれば!