フェミニストは他人の幸福が気に食わない、わけではない
何気ない日常のふとした瞬間にこそ幸せがある。私たちは人と人の関係性の中で自分を見つめ直せる。人の優しさに触れることで自分の愚かさに気付ける。その人が自分の結婚した相手であることのなんと幸運なことか。
だが当該ツイートには多くの批判(厳密には中傷だが)が寄せられ、炎上した。
他者への同一化と恣意的な憶測
上記ツイートが発端となり、フェミニスト界隈に波紋を呼んだ。
件の批判ツイートは恣意的な憶測をもとに結論を出している。当該ツイートには”当該ツイート主のパートナーは経済的に自立していない”ことを直接的に示唆する文章は見当たらない。「誕生日だから好きなだけ買っていいよ」という発言は当該ツイート主が家庭の財布の紐を握っているか、握っていないかで解釈が別れてくる。当該ツイートにはもちろんそんなことまで書かれていない。だが、件の批判ツイートは”この女性は経済的に自立していない”ことを断定する。なぜか?結婚していても経済的に自立している女性であれば、自身の「結婚したくない」という結論を導くには具合が悪いので、不確かな情報であろうとも「彼女は経済的に自立していない女性だ」と断定し、「普段は制限されているが、誕生日に限って自由に物を買うことを家父長的な男性によって許される哀れな女性被害者」という都合よく歪められた物語を用意し、自身の「結婚したくない」という結論を導出させるためだ。感情論を正当化するために詭弁を弄しているに過ぎない。
写真付きで世界中に公開されているのは当該ツイート主のパートナーであり、あなたではない。「誕生日だから好きなだけ買っていいよ」と言われたのは当該ツイート主のパートナーであり、あなたではない。こういった態度や言動は当該ツイート主のパートナーに向けられたものであり、あなたではない。自身に対する行為でないなら、言及するべきではないと言っているのではない。当人たちの関係性を加味せず、片側の言動や態度にだけ言及し批判するのは無意味だ。同じ言葉でも当人の関係によって意味はまったく違ってくるはずだ。言葉に意味があるのではなく、関係性が言葉に意味を持たせる。人の関係性は人の数だけある。それぞれ積み重ねてきた時間と、共有してきた空間がある。これらの文脈をまったく無視して自身を他者へ同一化したところで一体何になるのか。
なお同じような論調で多くの方々からの批判が繰り返されており、当該ツイート主から釈明と謝罪が行われた。
家父長制の被害者と感情論の正当化
件のフェミニストたちによる非難を批判する記事が上がっていた。
曰く、件のフェミニストたちは「自分の思い込みで自分を傷つけ、謝罪や釈明があっても一度出してしまった手を引っ込めなくなっている」
前述した通り、確かに件の批判ツイートは結論ありきの恣意的な憶測をもとにした詭弁であり、今更引き下がれない心理的な抵抗もあるかもしれない。エコー・チェンバー現象によって思想を過激化した共同体の承認を得るために「自分もあなたたちと同じようにこのツイートに家父長制を見出し非難することができます!」というホモソーシャル的なしぐさもあるだろう。
だが、この結論は件のフェミニストたちに限った話ではない。フェミニストの動機を語るにはあまりにも解像度が低すぎる。他人の幸福を素直に喜べなくなるのはもはや誰しも持ち得る感情だ。
自身の状況に対する幸福や満足度は比較対象によって左右される。これは比較するという呪いから逃れられない全人類の避けようがない運命だ。この理屈を件のフェミニストたちにだけ当てはめるのはあまりにも軽率であり、件のフェミニストたちを悪者に仕立て上げ、分断を煽るような印象操作でしかない。この言説も件のフェミニストたちの非難と同じように何の正当性もなく、社会を良くするのとは逆のベクトルを行くものだ。
ではなぜ噛み付いてしまうのか?フェミニストの多くは往々にして家父長制の被害者だからだ。家父長制によって自身のアイデンティティを抑圧され、ステレオタイプの女性像に押し込まれ、選択する機会を奪われ、一方的に搾取されてきた被害者だからだ。件の批判ツイート群は単純な難癖ではない。自身のトラウマを想起する行為への悲痛な叫びだ。それが実際に家父長制かどうかは重要ではない。家父長制を想起させた主観的な体験が、それを家父長制にする。トラウマによる反射的な反応なのだから、当然そこに正当性はないし、被害者であることが免罪符になることもない。だが、感情論は説得力がなく共同体に承認されづらいので、理屈をこねて合理化する。違うのはその社会的な背景だけで、どの共同体においても見られる現象であり、これもフェミニストの共同体に限った話ではない。
「家父長的な夫婦象を歓迎する風潮は家父長制を再生産する危険性をはらんでいる」という旨のツイートも見かけた。一般に美徳とされる価値観を批判する目的であるなら、当該ツイート主とそのパートナーのやり取りではなく、「夫婦とはかくあるべきだ!」「みんな結婚するべきだ!」と両手を上げて称賛する人たちを批判するべきではないのか。人の関係性は多種多様であり、一部の現象だけで全体を把握することは不可能であることは前述した通りだ。誰かの関係性に言及するなら何より慎重に行わなければ本質とはかけ離れた不毛な議論になるどころか、無辜の二人を脅かす事態になりかねない。
責任論はソリューションではない
私たちが批判するべきなのは、既存の価値体系に満足する個人ではなく、個人を抑圧する価値体系のほうだ。私たちの敵は差別者ではなく、差別思想そのものだ。なぜなら、差別者もまた差別を生産する社会的な構造の被害者だからだ。私は誰が悪いのか?とただ責任をなすりつけ合うのではなく、どうすればより良い社会になっていくのか?と建設的に話し合えるようになることを願う。当該ツイート主が自分の器の小ささと愚かさを、自分のパートナーの優しさに触れることで気付かされたように、私たちは人と人のやり取りを通して自分の目では見えないところまで見ることが出来るはずだ。さぁ、席に着いてくれ。話そうじゃないか。チョコでも食べながら