自分をおかしいやつだと認めてあげられたこと
人前で話すことが昔からだめだった。
だめだったと言えばなんだって、甘えだからとか、みんなのために努力しろだとか言われるけれど、そういう次元ではなくて。弱いわけではなくて、とにかく、自分には合っていないことってあるわけだ。
人前で話すのなんて、みんな緊張していたよね。
小学校のスピーチなんかいい例。毎朝出席番号順に一人ずつ教壇の前で話すやつ。「私無理〜」なんて決まってみんな言う。私もそう言った。だけどみんなはうまく話してた。昨日練習したから、とか言うけれど、そういうんじゃなくてさ。
原稿も何日も前から完璧にしてた。家で弟に聞いてもらったりもしてた。だけど当日、声が出ない。みんなが、私の前にいるから。かぼちゃだと思えとか、そういうのは、声が出ない人にはなんの効き目もない。
努力不足とかじゃなくてさ。私はただ、人前で話せない。
「答えがわかっているのに挙手して問題に答えようとしないのは卑怯だ」
なんて、中学生の頃言われたことがあるけれど、それでも授業は聞いてたし、先生の目だって黒板だって、目に焼きつけるように見つめていた。
先生が嫌いで仕方なくて手をあげないわけじゃないよ。
大好きな国語の授業だよ。先生だって、「藍ちゃんは国語の授業に一生懸命だね」って言ってくれたのに。
ありがとうもごめんなさいも、私は上手じゃなかった。
理科の授業中、隣の席の男の子から借りた黄緑の色鉛筆を、使い終わったのに返せなかった。
「ありがとう」とひとこと。それだけが必要なスキルなのに、私にはそれがだめだった。
結局授業が終わって、その流れでなにも言わずに彼にさし出した。彼はなにも気に留めていないようで、「おう」みたいなことを言ってたような。私はそのあとで小さくありがとうと言ったけれど、聞こえていたかは今もわからない。
こんな経験を毎日してきた。
するんと言葉が出るときもあるけれど、大抵言葉が出ない。頭に浮かんでいないわけじゃない。一文字一文字、鮮明に頭に浮かんでいる。
言葉が出ない、というよりは、緊張や不安で声が出ない。
喉の奥がぎゅうと狭くなる。声を出そうとしても、苦しくて出ない。
涙を流すときに我慢するときと同じような痛みが喉に走って、その場から逃げたい衝動にかられる。
「私なんて要らない」
とか、
「なんでこんなことしなきゃなの」
とか、
「どうせ誰も聞いてない」
とか、
人前で話さなきゃいけない日にはいくつもいくつも、こんな苦しみが頭を巡った。
『場面緘黙』という言葉を知ったのは大学生の頃だった。
家族の前では話せるのに、それ以外の人の前だと話せなくなる。
あ。
これ、知ってる、その感覚、知ってる、身に覚えがある。
ある番組で放送された、場面緘黙をテーマにした映像を観ていた。
場面緘黙に苦しめられている人たちが、実際に番組に出ていた。
周りの学生たちは、哀れむような目でその映像を観ていたけれど、私は、みんなこの感覚を知らないんだ、なんて不思議さがあった。
それと同時に、自分がおかしいとわかっているのに、周りとどうにか同じでいたいと強く願っていた私に会いたくなった。
その頃はだいぶ改善もされていたから、「これでみんなと同じだ!やっとだ!」なんて安心をしていたのも、なんてかわいそうなことを自分にしていたんだろうと思った。
自分をおかしいと認めることは、自分の最大の武器になる。
この日初めて知ったことだった。
今日、バイト先で、どう動けばいいのか、自分が今なんの仕事をすることが最善なのかわからなくなった瞬間、脳みそがバグったように思考を停止した。
他の従業員の仕事に中途半端に関わって、あ、違う、私多分今この仕事をするべきじゃない。
と思ったとき、急に喉が狭くなった。
あの感覚。
声が出ない。察した。
案の定他の従業員に迷惑をかける。
ひとこと声をかければ、もっとスムーズに仕事が進むとわかっているのに、わかりきっているのに、私にはそれを言葉にすることができなかった。
終わってないんだなと思った。
小中学生の頃感じていたあの痛みは、今も続いている。
必死で、「私はおかしいから仕方ない」とか思おうとしたけれど、他人にそれを伝えたらどうなる?なんて考え始めてしまったら止まらなくなった。
怖くなってしまった。もっと喉が狭くなった。
バイトの帰り道、田んぼ道で虫とぶつかりながら泣いてしまった。
最近うまくいってた。話しかけてくれる人も増えたし、私もよく笑えていると思った。
だけど、自分の弱いところに触れてしまったとき、一番敵になるのは自分だと改めて知ってしまった。
前向きになんてなれない。
だけど後ろを向いて泣く必要はきっとない。
私は、おかしい奴。
弱いわけでも不器用でもない。
ただただ、周りとは違って、人と話すのが、人前で話すのが、怖くて苦手なだけ。
たった、それだけ。