コメント用紙と言う名のラブレター、的な
的な、をつけてしまったのは、少し恥ずかしくなったから。わたしは講演会や授業の最後に提出するコメント用紙というのが大好きで、時間いっぱい用紙いっぱい、書いてしまう人種である。ただそれは、ぺらぺらと話すことが苦手なため、頭を整理して、ゆっくり言葉を選んで相手に伝えることのできるコメント用紙が私に合っている、というだけのことなのだが。
例えば小学生の頃、講演会にいらっしゃったすごい人に向けて。道徳の授業で読んだお話について先生に向けて。中学生の頃も、講演会というのが何度かあった。高校生の頃には、そういえば、コメント用紙を書くような機会はなかったかもしれない。
大学では、このコメント用紙との出会いが増えた。自分でも自分の学部のことよくわからないのだが(学部名を書くと全てがバレてしまうほど特殊な学部である)、自由度が高くて様々な授業が取れる。いわゆるリベラルアーツ教育、的な。…まぁ、これが自分にとても合っていて、様々な角度から物事を見る目を養うことができた4年間は何物にも代え難い。
そんな学部の授業の中で、”隣の人も異文化”を掲げる授業があった。とても人気の授業で、学生からの評価も高い。50人くらいが受講していたか。異文化のとある風習や日本のニュース、書籍、あるときは新聞の読者投稿など様々なテーマについて教授が説明だけの授業をする。教授の意見は挟まず極めて中立的な立場だが、考える材料やヒントをくれる。授業の終わりにコメント用紙を自由に書く。次の授業には、ピックアップされた匿名のコメントがずらっと並んだレジュメが配られる。それらを皆で読んで”隣の人は異文化だ”ということを再認識しながら、テーマに対する理解を深めていくというものだ。
わたしは、この授業が大好きだった。コメント用紙という名のラブレターを、しかも他人の、もしかすると友人のを、たくさん読むことができたからだ。そして、今の私の思考の根底にある”あなたにとって、わたしも異文化”という思考回路を持つことができたきっかけだったからだ。
毎日SNSを見ているが、意見のぶつかり合いが多すぎる。今日、「〇〇は嫌いなのに、〇〇の〜は好きというダブルスタンダードを持つことなんて不可能なはずだ!」という意見を強い口調でぶつけている人を見て、このコメント用紙のことを思い出した。
わたしはこの意見に対して、そんなダブルスタンダードを持つ人も存在するだろうし、気持ちも分かる気がする。んでもって、不可能なはずだ!と言い切る人の思考回路もわかる。ただ、この議論を前に進めたいならそこに固執していても仕方ないんじゃないかなぁ。みたいなことを考えていた。
こういうわたしの思考回路は、自分の意見を持たないええ顔しいだ、と思われがちだと思うが、そうではないと思いたい。私にも、自分の意見はある。ただ、たくさんのラブレターを読んで気づいたのは、人は皆、違った考え方を持っているということ。生き方もそう。だから、”違い”に出会った時の、一呼吸、そういう考えもあるよなぁ、という、頭のひと休みが必要なのだと思う。
反射的に口が動いたり、指がキーボードを叩いたり、すぐに反論することもできる。ただ、ラブレターのように、一度渡したら戻ってこないコメント用紙には、じっくり考えて、違いを受け入れながら、思いを綴っていくのだ。そんな風に会話をするのが目標ではあるが、まだまだ頭の回転が遅い私はよく「聞いてるの?」と聞かれてしまい、「考えてる」と答えるのだが。
意見と意見がぶつかり合うSNS時代の今だからこそ、SNSを通してたくさんの意見に触れることができる。ラブレターと言う名のコメント用紙をせっせと書いていたあの頃のように、ボタンを押す前にゆっくり考えられる人間でありたい。
そして、noteをラブレターのように丁寧に優しく、綴っていけるように。
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余談ではあるが、コメント用紙は本当にラブレターのようなものだった。ファンレターと言ってもいいかもしれない。この授業の主である教授とは、「君があのコメント用紙の可菜さんですか、いつも面白いよね。レジュメに毎回載せてるよ。」といって仲良くなり在学中も卒業後も何度も飲みに連れて行ってもらった仲である。別の教授と話していた時にやってきた教授は「あなたの名前聞いたことあるの、なんでかなぁ…あぁ!コメント用紙、フィリピンに行ったことがあるなんて君だけだったから覚えてるんだよ!」などと驚きの発言。その出会いがきっかけで、その後一緒にフィリピンへ行き次の年は学会に参加している。わたしのラブレターも侮れないもんだな。
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