世界を少しだけ良くしたい
世界も、良くしたいも、ふわっとした表現でイマイチぴんとこないのだが、昔から、世界を少しだけでも良くしたいという思いがある。
世の中にある仕事はみな、お金を生み出しているのだから少しは人の役に立っているのだろう。そういうわたしも今働いている限りは、少しは人の役に立っているのかもしれない。
しかし、人の役に立つことと世界を少しだけ良くすることとは、少し違うんだと思う。
価値観を提供すること。これで少しは世界を良くすることができるだろうか?モノが流通する過程には、材料を作る人、モノを作る人、売る人、買う人が存在する。他にも仕入れる人や運ぶ人、デザインする人、宣伝する人など多様な役割の人々が存在するだろう。その中でたったひとり、買う人の価値観が変われば全てが変わる可能性がある。安いものがもてはやされるこの世の中で、エシカルな消費は世界をどのくらい変えることができるのだろうか。圧倒的に弱者になりやすい、材料を作る人、モノを作る人。ものづくりの日本などと言われる日本で、どれだけの日本人がその”ものづくり”に目を向けているだろうか。大量生産に負ける、安さにかなわない、伝統が途絶える、こんな言葉を何回聞いたことだろう。ラナプラザの崩壊事故から何年経ったか。ファストファッションの”安さ”は、どれだけの人々の命の犠牲の上に実現しているのだろう。…。
僕たちは世界を変えることができない。
著者の葉田さんにお会いしたことがある。私たちは世界を変えることができない。変えてやるとか、そんな鼻息荒く意気込まなくったっていい。やっぱり、私なんかに世界は変えることなんてできない。だからこそ、世界を変えてやろう!ではなくて、自分も世界もこの方が幸せになれるとしたら、自分も嬉しいからこっちの方がいいよね。もしかしたら将来自分に子供がいるとして、こういう世界を、とまではいかなくともこういう価値観を伝えていきたいよね、だってその方が自分も嬉しいし。
こんな、やさしい価値観を葉田さんは私に教えてくれた。
世界を変えることができない。
これは悲観的なメッセージではなく、世界にやさしい身近なメッセージ。葉田さんは、田舎の大学の小娘の素朴な疑問にも真摯に向き合ってくれた。そして著書や講演活動を通して、世界を少しだけ、いや、どのくらいかは分からないんだけど、良くしたんだと思う。
葉田さんのような謙虚で誠実な人になりたいと思っていたあの頃の自分は、どこにいるのだろう。ちゃんといまもわたしの中にいるのだろうか。こうして今日もわたしは、今の自分と向き合って少しだけうつむいてしまうのだ。
まずは自分を少しだけ、変えるところから。