死と向き合うとは
母を介護しながら、ずっと答えを探し求めていたテーマです。それと同時に逃げ続けてきたテーマでもあります。
今回はスピリチュアル投稿になるので私の経験に基づく主観でお話しします。考え方は千差万別。ちょっとだけお付き合いください。
母はずっと「早く死にたい。なぜ死なせてくれないの?」と言っていました。
痛みによる苦痛ではありません。
日に日に衰弱していく体、絶え間なく襲ってくる不安。コロナウィルスの影響でどうしても一人でいる時間が増える事で感じる孤独。「病気と闘う」というのは結局のところ、孤独との闘いんだと思います。家族がどんなに想っていても、医者がどんな言葉を使って説明しても自分の辛さは自分にしか分かりませんからね。
母は心の内側から溢れてくる死への恐怖に怯えていたんだと思います。
「分かった。俺が殺してあげる。」と何度思ったか。それで母が楽になるならば。でも人は倫理上、自ら命を絶つことができません。では、この苦しい時間に何か意味を持たせたい。
大切な人へ、メッセージを残すための時間?
ここまでの人生で悪いことをしてきた罰が今、来ている?
人の寿命ってどんな意義があるんでしょうね。そもそも人はなぜ生きているのか?考えがごちゃごちゃしてきた時は魔法の一言。
「これがあなたの運命です」
結局、亡くなる日まで母は死と向き合い受け入れる事がありませんでした。
4/25。
母の呼吸が止まりました。納棺師さんに旅支度をしてもらった母はとても穏やかな表情をしていて、一日前の痛みに耐えている母ではありませんでした。仮に死というイベントが「谷底に落ちてしまいゲームオーバー」ではなく、次のステージへ行くための儀式だとしたら。亡くなった人たちとまた会える激熱イベントだとしたら?
…と、いう話を生前の母に伝えても死を受け入れる事はなかったんですけどねw
これも死と向き合う動機付けにはなりませんでした。
答えはまだ見つかっていません。
ただ、一つだけ試してみたかったけど出来なかったことがあります。
それはこちら↓。臨床宗教師との面談です。
******引用********
「臨床宗教師」とは、被災地や医療機関、福祉施設などの公共空間で心のケアを提供する宗教者です。「臨床宗教師」という言葉は、欧米のチャプレンに対応する日本語として考えられました。宗教勧誘を行うのではなく、相手の価値観を尊重しながら、宗教者としての経験をいかして、苦悩や悲嘆を抱える方々に寄り添います。
仏教、キリスト教、神道など、さまざまな信仰を持つ宗教者が協力しています。
******引用 終わり********
母は生前、お寺さんの講演会を聞くのが大好きでした。私も何度か同席した事があるのですが僧侶が語る言葉にはいつも説得力がありました。
宗教者の方に来てもらって、心のケアをしてもらえていたら…もしかしたら前向きに「死と向き合う」きっかけを掴んでくれていたかもしれません。もう試す事もできないんですけどね。もし、私と同じように悩んでいる方がいれば、一つ試してみる価値はあると思っています。
世の中に溢れているけど、決して自分事で向き合う事ができない「死」。母と父の死を経験してもまだ、よく分かっていません。でも、自分もいつか必ず死にます。母の辛い姿をずっとそばで見てきたからこそ、感じた事を自分の人生に活かしたい。「死を受け入れる」為の準備を今からやっていきたい。
・・・・・・・・・無理か。一度、死ななきゃ分からないよなぁ。難しぃ。
終わり