コンテストを勝ち抜くために確立されたテンプレート―『ジュディ 虹の彼方に』
アカデミー賞で演技部門を獲得するために一番重要なことは何だろう。演技力?容姿?それとも、過激な役作り?いや、それらは基準のひとつであって、決定的要因とはならない。受賞を左右するのは「それに相応しい役を獲得すること」である。たとえば、アカデミーは実在の人物を演じる俳優が大好きだ。「どれほど似ているか」というポイントで演技の良し悪しを見定められるからである。『ミルク』(2008)のショーン・ペンは演技力によって、『モンスター』(2003)のシャーリーズ・セロンは特殊メイクの力によって歴史上の人物そっくりになってみせた。どれほど優れた芝居をしていようが、アカデミーは平凡な人間を好まない。
次に、精神的に不安定なキャラクターも、受賞に大きく近づける。麻薬中毒者に病人、トラウマを背負った人間ならなおよしだ。そのほか、特殊技能を見せつける類の映画も、加点ポイントとなる。歌やダンスに長けた俳優だと、その魅力は分かりやすい。挙句の果てに、『ボヘミアン・ラプソディ』(2018)で、本人がほとんど歌唱をせず吹き替えで演じていたはずのラミ・マレックさえも主演男優賞を獲得してしまった。とりあえず、画面の中で口をパクつかせ、ステージで大暴れしていればアカデミーは評価してくれるらしい。
ここまで書けば分かるように、アカデミー賞とは傾向と対策を踏まえて受賞を目指す、紛れもないコンテストである。毎年のように数は増えているとはいえ、アカデミー会員の顔ぶれがほとんど変わらない以上、好みが確立されていくのは致し方ない。しかも何千人もの映画人が会員に名を連ねているのだから、投票結果は平均律を反映したものとなる。独自性や新鮮味はほとんどアカデミーに響かない。どこかで見たような映画のどこかで見たような役柄を演じた俳優が、流れ作業のようにオスカー像を掲げるだけだ。ごく稀に例外はあるものの、演技部門において番狂わせが起こる確率などほとんどない。
だからこそ、ハリウッドには俳優に賞を獲らせるための映画があふれている。それらのパッケージはどれも驚くほど似ている。まず、実在のスターの伝記映画であることが重要だ。彼らは若くして成功を収め、この世の春を謳歌する。しかし、成功者ゆえの誘惑につかまり、低迷期を迎える。だが、家族や恋人、ファンの愛を知って復活し、クライマックスで最高のステージを繰り広げるのだ。実際に主演男優や女優賞を受賞した作品を見ていこう。『ボヘミアン・ラプソディ』も『Ray/レイ』(2004)も『歌え!ロレッタ愛のために』(1980)もストーリーは概ね同じ。非アメリカ映画では、『シャイン』(1996)や『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』(2007)もあった。
「実在の人物」「精神的に不安定な人物」「歌か踊りに秀でた人物」の3つが揃った映画だけで、これほどタイトルが出てくる。いずれかの要素だけを含んだ作品ともなれば、もうキリがない。そして、映画ファンは賞レースの季節が近づくたび、ハリウッドスターがステージの上で涙ながらのパフォーマンスを繰り広げる映画に出会う。その繰り返しには正直辟易しているものの、ごくたまに良い映画も存在する。だから、一応は劇場へと通わざるをえない。そして、多くの場合、がっかりして帰路に着く。
レネー・ゼルウィガー主演『ジュディ 虹の彼方に』(2019)は、こうしたコンテストで勝利を収めた最新の事例である。ストーリーはすでに書いた通りだ。特に目新しい部分もない。『オズの魔法使』(1939)のドロシー役として知られるジュディ・ガーランドの晩年を映画にしている。ジュディが少女時代から麻薬漬けだったこと、しかも、彼女を馬車馬のように働かせたい周囲が薬を盛っていたことなどが赤裸々に描かれている点などは面白い。だが、ゴシップ的な興味をくすぐる描写でしかなく、映画の中心はあくまでジュディを演じるレネーの歌唱である。
本作のレネーのパフォーマンスがどうかと言われれば、もちろん素晴らしい。ただ、映画の感想で「映像が素晴らしい」「録音が優れている」といった言葉が誉め言葉とならないように、レネーの歌が本作の長所となっているかはかなり微妙である。なぜなら、映画ファンは本作のように、主人公が自堕落な生活を送り、人生を背負ってステージに上がる映画を散々見せられてきたからだ。もはや、これはジュディ・ガーランドの映画なのかどうかすら怪しい。脚本のテンプレートが出来上がっていて、ハリウッドのスタジオ間で共有されているのではないか。そのような、つまらない想像を働かせてしまうほど、本作のプロットはありきたりである。ただ、この先、いくらでも同じような映画は作られるだろう。これでますます、「アカデミー賞を獲れるコツ」が補強されてしまった以上。
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