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当事者は誰か

新しい時代を生きる感覚

ミャンマーのクーデターに対して「これまでも軍事政権だったんだし、仕方がない」「軍は変わらない」と言う人がいます。

今年の2月にクーデターが起きた直後から、ミャンマーの若者は、歌を歌ったり音楽を奏でたり警察官に花束を渡すなど、非暴力で平和的なデモを行い、SNSを活用して世界に発信していました。それは、国際社会へのアピールでした。過去の歴史がどうであれ、「武力による支配はあり得ない」と誰もが思っていたからです。

「この理不尽を国際社会が許すはずがない」

ミャンマーの若者は誰もがそう思っていたはずです。実際、ミャンマーで暮らす私も、国際社会が黙って見ているはずがないと、信じていました。

これまで深く考えたことはありませんでしたが、今の時代を生きる私たち(Z世代とか言われても全然ピンときませんが)は、ミャンマーに住んでいても、日本に住んでいても同じ「世界市民(地球市民?)」だという感覚を持っているのではないかと思います。

それなのに、国際社会は目を背け、彼らのSOSに答えませんでした。私はミャンマーにいて、この過程をみている間、仮に日本が某国から支配されたり侵略されたとしても、国際社会は助けてくれないのだ、と危機感を覚えました。

そしてミャンマーの問題に対して無関心でいることは、日本の未来に対して無関心なことと同じなのではないか、と思ったのです。

日本の学びの矛盾

日本では、道徳の授業の中で、いじめに関して「傍観者は加害者と同罪だ」と教えます。私はこの意見に反対ですが、賛同する人は少なくありません。

日本は、ミャンマーの現状に対し、傍観者になってはいないでしょうか。傍観者が加害者と同罪であるならば、ミャンマーの若者が追い詰められ、武器を持つようになったことも、地方で弾圧が強まり、多くの避難民が出ていることも、国際社会がミャンマーの問題を傍観し続けた結果だと言えるのではないでしょうか。

(日本で教える道徳は、所詮建前なのでしょうか。道徳の教科書に「※政治や外交には通用しません」「※理想と現実は違います」など、注釈が必要ですか?正直、私は道徳の授業にはうんざりでした。)

私たちにできることは何か

クーデター発生から弾圧が激しくなっていく3月までヤンゴンにいて、一番強く感じたのは「国際社会は何かできないのか」ということでした。

もし私たちがGLOBALCITIZENなら、国際社会は、一方的な武力による理不尽を許すはずがありません。内政干渉など、複雑な政治問題がよく話題に上がるけれど、人権が侵害されている現状に対し、傍観することが正しいとは思えません。「もっと早い段階で、何かできたのではないか」と今でも思います。

ミャンマーで起こったことは、他人事ではありません。同じ「世界市民」である私たちは、自分の住む世界で、起きている全ての出来事に対して、当事者です。私は常に対話できる人になりたいです。そのために今何をするべきなのか、プロジェクトのメンバー、そして皆さんと一緒に考えたいと思います。

(野中優那)


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