戦前の“電話担保金融”(チラシ)から見る-東京市日本橋...-
■濱電話店(電話担保融資)
電話担保金融とは、電話加入権を担保に融資する(される)こと。
マルフクが業界最大手企業(1958年創業/丸福電話店)だったようですがデジタル電話(ケータイ等)が流行り出し、電話加入権の価値が下がり現在となっては看板ですら見掛けたらラッキーな程、絶滅危惧種である。たぶんね、
住所表記が“東京市”と記載されているのに驚きました。
■で、チラシはいつの時代のもの?!
戦前かつ1939年・昭和13年までの代物ではないかと思います。
個人的感情含めるともう少し古いものだと・・・(まだ調べるつもり)
理由↓
濱電話店の住居表示が“東京市”である事(1943年・昭和18年以前)、下の地図にも記載がある周辺の私設、電停(路面電車時代)から(1939年・昭和14年以前)と推測します。
■電話加入権とは
※Wikipediaより
1890年 - 電話事業開始。電話加入権の概念はなく無料で設置できた。
1897年 - 電話交換規則が制定され、加入登記料制度が発足した。当初の加入登記料は15円。(電話加入権のはじまり)
■濱電話店)日本橋周辺の立地
濱電話店は現在はメトロ人形町駅と水天宮前駅(どちらも当時は路面電車だったので電停)の間西部にあったようです。
当時の最寄の電停は“蠣殻町電停”(かきがらちょう)
1936年・昭和11年の空中写真↓(赤く囲んだあたりです)
■日本橋-人形町、蠣殻町ってどんな場所?
地図を見て“学んでみる”(遊んでみる)
①人形町電停のある通り
江戸時代初期には幕府公認の元吉原が人形町通りの東側に在ったとされる。
後に移転。
関東大震災の被害を受け、現在の町並みの基盤が出来たよう。
人形町通りには明治時代から路面電車が走っておりました。
(現在は東京メトロ)
昭和初期にはカフェーが通りを挟む形で並ぶ街となった。全盛期の昭和10年ごろには、人形町通りを挟んだ両側の路地に80軒以上のカフェーがあった。
②蠣殻町電停から水天宮電停のある新大橋通り
人形町通りと同じく、こちらも明治時代には路面電車が走ってました。
1971年・昭和46年、都電(現在:東京都電車)の水天宮前電停、蛎殻町電停が廃止。※水天宮駅は位置は代わっているようですが、東京メトロの駅としては現在も存在してます。
蠣殻町電停の名残は残ってなさそうです。
③米穀取引所
1876年・明治8年に米穀取引所が置かれ、大阪の堂島とともに米相場の中心となって発展。(1939年・昭和14年、廃止)
④株式取引所
正式名称は東京株式取引所(1874年・明治7年~1947年・昭和22年)
その発起人には(2024年発行予定)新一万円札のモデルでもあり、何かと話題の多い(・・・)渋沢栄一が居りました。
現在の株式会社東京証券取引所の前身でもあり
戦前は“東京株式取引所”、戦後は“東京証券取引所”という認識してますが・・・
Wikipediaより
詳しい古地図はネット環境(デジタル印刷版)でも購入できるようなので気になった方は買ってみてはいかがでしょうか。
■元ネタツイ
■最後に
いつも最後まで読んで頂き有難う御座います。
当方、気分にムラがあり気分が乗った時に気になった箇所だけ調べたり書いたりしかできません。素人の趣味の一部なので、情報不足も御座いますが
面白い情報等やお話あれば教えて下さりますと嬉しいです。
また見て頂ければ幸いです。有難う御座いました。
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