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分別すること、具体と抽象

もう22歳の大人になって分別をつけることの重要性が身に滲みるようになってきた。その言葉通り、道理をわきまえて考えること、もあるけど、もう一つの方の分別(ぶんべつ)が重要だなって思えてきた。


すごく唐突だけど、なんでも切断して生きてるなって思う。響きがかっこいいから「切断」って書いてるけど、何かを決めること、と同じ意味。

「決める」という言葉は「決定」や「決断」などの選択することじゃなくて、「決壊」や「決裂」にあるような切断のイメージ。字源的にも、氾濫を防ぐために堤防を壊すことの意味があるから、決定や選択のコアイメージは切断だと思ってる。

何かを選択することは、他のすべてを選択しないことという、その表裏を考えると、何かを捨ててるんだなぁって漠然と思う。

「一つを選ぶという事は、一つを捨てるという事だ」って好きな曲の一節があるけど、本当にそうだなって。ここでは二者択一だけど、色々な可能性を拡大して考えると、選ばれなかった可能性は無限に存在してしまう。

何回か日記にも、後悔や切なさは存在しない世界に対する哀愁、って書いてるけど、選択しなかった捨てたものを見つめる視線は、やっぱり可能性や再現性への憧憬だと思う。

なんかポエム臭い言葉になったけど、何でも切断して生きてるな、ってしみじみ考えてた。それがアウトプットとインプットの両工程で起きてる。


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具体から抽象へ、忘却によって切断することでイメージの部分を取り出してる。具体と抽象の説明なんて今更言うことでもないけど、何かを切り捨てていると思う。

「春」は、四季の中の春という要素でもあるし、温かい空気、花々の色彩、草木の深さ、入学式やピクニック、その他思い出のひとつひとつ、いろいろな経験や情報の中の春を掬い集めて抽出して出来た「春」だから、煙草の吸い殻とかコーヒーの滓みたいに、捨ててしまう部分こそが、春以外の何か。

春の季節に存在する、すべての物体に春が込められてるのに、そのすべてを春の一部だと思わずに、無意識に忘却してる春以外のすべての要素があって。

視界に収めて認識したはずのものを、忘却していることが先ず、具体と抽象の最たる証拠だなって思う。


ある発達障害の症状でパターンや行動に固執する性格の方がいるけど、その原因に、抽象化や忘却ができないことがあるらしい。

自分は大学生だから「電車に乗って通学しよう」とほとんど無意識に電車で移動する行動しているけど、拘りが強いと「あの電車」の「〇号目の車両」の「出入り口から左」の「右から〇番目の席」、みたいに過度に具体的な行動を取ることがあるらしい。

電車に乗るって抽象に対して、特定の席に座るという具体。一般的にどの席に座ったかなんて記憶しないけど、あのときの経験のすべてを記憶しているから選択ができない。乗車Aと乗車Bの経験が、まったく個別の事象に見えているから、乗車という経験にまとめられず、乗車Aが再現できないことの予測誤差に疲弊する。

具体を束ねて抽象にするシステムは忘却によって可能になってる。だから忘却するからこそ自由で、抽象だからこそ、何とも思わずに電車のどの席にも座れてるのかも。生活のルーティンもおおかた同じだと思う。抽象によって無意識な行動が取れる。微小の予測誤差を切断することができるから。

発達障害的なパターンへの固執、予測誤差への拒絶は、もっと別の領域で多元的だからむやみに書けないけど、あらゆる行動は、忘却や切断によって成立しているという可能性が、なぜか恐れ慄くような大きさで存在してて怖い。大仏に感じる畏敬が胸の奥にある。

ハイボールを飲んで胃が熱くなって、自分の胃の場所や形を知る。そんな感覚で、おぼつかないながらに深淵を辿る気持ち? まったくの未知で既知。

それに人間の身体的かつ精神的な恒常性についても伺えるような、もっと中動態的というか。具体と抽象の奥にある、その忘却や切断に、もやもやと何か本質的なもの感じる。

もっと大人になれば、分かるのかな。この疑いが晴れたら嬉しいけどね。


趣味や好みも、具体と抽象の切断によって生まれてるものかも。「10代で聴いていた音楽が、生涯かけて聴く音楽になる」って文句も、本当にそうだなって。

音楽に限らず、小説や詩の趣味も、ファッションも食の好みも、人生観も死生観も。色々な言葉や経験をもとに成熟していく過程は、抽象化でしかない。その抽象的な切断でもあるし、好きなものを見るのも、好きじゃないものを見ないのも選択的な切断だなって思う。

でも形成するなら切断と統合がいるか。「切断」も「統合」も言葉がかっこいいから好き。具体をまとめて抽象にする。抽象をまとめて具体にする。切断と統合の繰り返し。

そもそも思考の根底には、具体と抽象があるんだから、当たり前なのは当たり前なんだけど、ようやく大人になってそれに気付きはじめた。

切断は、決定で、忘却で、抽出で、廃棄で、無視で、分別で、殺害で。もっと他の言葉でもなんでもいい。抽象的なイメージが同じだったら


上坂あゆ美さんの「私より先に丁寧に暮らすな」ってポッドキャストを好きで聴いてて、そのもう1人のパーソナリティの鵜飼さんの言葉(意訳)

若い頃に色々なものをディグして、大人になったら、それをさらに掘っていく。過去は、自分の作風や好みの見つける作業だった。

#87ドラマ映画漫画...ハマれないことに悩んでいる人の話

めっちゃエウレカというか、はっとさせられた。

10代の頃は何でも楽しめたけど、大人になったら「共感するもの」と「予想の斜め上のもの」しか楽しめなくなった。そんなリスナーの投稿をもとに2人が話している回なんだけど、好みが固定化することってネガティブではないよね、って話だった。

好みって抽象化の最果てというか。成熟に近いのかなって思う。もちろん心変わりもできるし、増やすことも減らすこともできる。すごく曖昧だけど、この曖昧さは、経験を抽象化したからこそ、揺らぎの中でも立ってられる指標だからものすごく尊い。

固定は悪じゃないし、コンテンツに溢れる現代において特にコンテンツを切り捨てることは悪じゃない。流行りのものに興味がないのも決して悪いことじゃない。

すごく当たり前すぎて言葉にしてなかった事実が、電車のすぐそばを駆け抜ける強引な風みたいなスピードと威力でぶつかってきた。


スマホの充電がなくて音楽が聴けなくて、かといって本を読むほどの気力もない電車の中で、ぼやぁーと考えてた内容だから中身は空洞だけど、こういう考えごとは好きだから、まぁいいか。

偶にはどうでもいい考え事を書いてもいいよね。

全部書き出したら10000文字を超えそう。もっと文章力があったらこの感動を具体的に伝えられるのに。抽象的なものを説明するのは難しいな。

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