侘び寂びの美意識について
私は茶道を習ったのをきっかけに、侘び寂びの美を見極められるようになりたいと思い、週に一度座禅に通っている。
侘び寂びの美意識とは、世間的には「閑寂ななかに奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」と言われたりしている。
私にはそれがしっくり来ない。
私は「(生きる上で)自然の流れから享受すること、そして、それに共鳴する感覚」が侘び寂びの美意識であると解釈する。仏教的思考である。
前者(世間的な言い方)だと、"閑寂さ"を特別視する感があるが、茶の湯において、特別視するという行為自体が我執であり、避けるべき心の動揺である。
閑寂のままにする(華美となる事を目指さない)ことで、ものごとをシンプルに考えたり、ありのままを見ることにつながるのだが、
表現する時に、閑寂さを特別視して作るならば、そこで出来たものを目利きが見れば、一瞬で作為的であると一蹴されてしまうであろう。
茶の湯の名品は、以下のいずれかを含んでいる様に思う。①理想に捉われずに等身大で作られたもの。②仏教的観点で言う、色の美しさ(完全・強固・優美・華美・便利さ)を目指さずに作られたもの。③一瞬の存在感(即ち無常)を感じるもの。④生命的な躍動が感じられるもの。
それは、茶の湯に生きる居士の生き様と重なる。
その景色が、華美な美しさとは別の類の美しさや、共感となって、人々の心に響くのではないだろうか。
茶の湯といっても、時代によって思想や形は様々だ。だが、私には茶の湯は上記の様な根源的なものを核として始まったことに思えてならない。
なぜならば、先人が残し脈々と受け継がれた墨蹟や、茶室、道具、流儀には、茶の湯に生きることに対する強い姿勢が表れている。
強すぎる程の存在感がそこにあり、それに触れた時、私自身が無常の中の喜びに感涙するからである。