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団結

     最近、故安岡正篤という思想学者の方の本を、毎日読んでいる。

いや、読み漁ってると言った方が早い。安岡爺がお亡くなりになりもう数十年。氏の弟子の弟子がいまだに存在する。最早教育者をも超える。今回は安岡正篤氏の本を読み、感ずる事も書く。

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「団結」は、私の好きな言葉であり、YANAGIHARAジムのスローガンにしようと以前から思ってきた。ただ、しかし表にはあまり言わず、出さなかった。

何故なら、私自身が一匹狼的なところがあり、団体行動が子供の頃から嫌いなので上手く出来ていない。出来てない事をスローガンにする程、愚かな事はない。

所で、ボクシングジム以外に危機管理コンサルタントなんぞをしていると、絶対不可能と思う事案を依頼される事がある。無理と不可能が大嫌いな私は、二つ返事で受け、立ち向かい不可能と戦う。

それを美徳、とか正しい、と思っていた時期がある。交渉を依頼された時点でクライアントは相手と揉めているので、ある時は何方とも取れる事案を、100%此方が正しいように、あえてした。

ある時は交渉相手の弁護士の、法の解釈ミスをなじり、相手の尊厳を無視し、完全に論破し弁護士を本当に泣かせた事もある。勝利こそクライアントへの当然の仕事で喜ばれる事で、美徳としていた。

「これはいくら何でも他に人手がいる」。そういう負け戦の終焉前でも、私のくだらぬプライドが入り他人に頼む事をせず、一人徹夜で作戦を立て、翌朝交渉に勝つ。

それがビジネスだ!と誇りにしていた。力業でも何でも使い逆転して来た。生命までは獲られまい。そう思えば怖い事なんかあるか。

「生命までは獲られまい。そう思えば怖い事なんかあるか」という考えは今でも変わらないが「力技でも何でも」と言うところが、私の思慮浅い所であった。

そしてある土曜の夜の事。文章にする事も悍ましいし済んだ事だから書かない。しかし怒りの絶頂を迎える、意外に公正でピュアな私は、あまりの理不尽な事にキレた。

「現場で、命賭けてるのはいつも俺一人だけやないか!」と。
「人を助け報われる事なんかいつまでも来ないやんか!」と。

普通の人は、泣くか逃げるか凹むのだろうが、私はこういう場合、怒りに変わる。お酒も飲まず遊びは卒業した。涙腺はどうも体に無い構造のようだ。

どうこの怒りを晴すべくか分からず、本当にこの時は、怒りを抑える事に2日かかった。最近こう考える。

『自分の心をコントロールできなくなる事をした自分がいけない』

つまりそう言うことだ。他人を悪く思っても根本は消えない。そして一番大切な事は、勝ちだの負けだの、そんな愚考でボクシングを教えても、本当の指導にも教育にも無らない事に気付きだした。

不可能に近い事を自ら望み、その結果1人で勝ちにこだわり、勝ちに酔う。原因は自分じゃないか。自分をコントロール出来ない事を起こす行為と思考を変えよう、そう思う様になった。

今は教え子と共に団結し、夢を達成したい。そんな事を思い先日の試合を迎えた。日曜の試合はほんの些細な事かも知れぬが、私には大きな収穫があった。私は何もしていないのに皆が団結していた。

OB、トレーナー、会員さん。来年、プロデビューする子もそうでない子も、戦う選手と共に素晴らしい団結力で、皆まるで自分の試合より出場選手の事を思っていた。

私はただそこにいて、おとなしく見るだけで良かった。楽な一日だった。今後も色々な善行を行う人や、良い書物から学び、上記の気持ちは持ち続ける。そこに真の団結が来るだろう。

少なくともこの日の試合はそうだったのだから、前回ここで私は、「選手の勝利はジムのメンバーのおかげだ」だと書いたのだ。

私がもっと勉強すれば、求めている団結は更に固くなって行くだろう。そろそろ私も人生の集大成に入ろうと思う様にもなった。人間、晩節を汚すほど悲しい事はない。

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そして冒頭に紹介した、安岡正篤先生。

以前からこの方に興味があった。この方の書物全てが正しい事はないだろうが、田中角栄氏を含む、歴代総理の心の指南役、弟子達もが相談に行っていた訳が分かる。

「本を読み始めて、その本が面白くないと言う者は愚かだ」と書いていた。「本を手に取った時に、それが分かるようでなければならない」と。そのためには勉強する事だとある。

上記の過去の恥を書いている時、真の国益や地元愛、選手に対する愛なんか、実は何も知らぬ自分を恥じた。これからは、こう言う思想学の本も読もう。そういう勉強は好きなのにしなかった。

私も勉強する事はできる、と思いたい(笑)。正しい経過を辿ろうと、少しでも良くなる様に決意する事は、何ら恥ずべき事ではないだろう。

「人間徳を積むと得をする」ともある。この得は「利」ではなく「義」が先でなければならんそうだ。深すぎて実はよく分からんが「そうだ」と思う。

一番響いた事は「孤独を楽しめるようにならねば」という言葉だった。きっと安岡爺も孤独と戦ったと思う。

そこまで達観した人は凄いと思うと、私など、まだまだ門前にも辿り着いてない、お経も手にしてない小僧である事に気付く。

「敬、を忘れてはならぬ、子供は母を愛し父を敬う。いつまでも敬う人を持ちなさい」。
そうも説いている。なるほど。だから私は、いつも独りモハメドアリを思い出すのか、と言うのは強引だろうか(笑)。

実は私は、実の兄の様に敬える人を平成元年2月に、実の父の様に敬える人を平成10年5月に亡くした。

共に私がまだ30歳以下の時のことだ。それから終ぞや今日に至るまで、敬う人というのが居ない。

もしかして私は「また、俺の前からいなくなるんじゃないか?」「また俺を置いて先に死ぬんじゃないか?」と、敬う人を亡くすのを恐れ、私自身が敬う事から逃げていたのかも知れない。

だとすれば私は臆病で卑怯者だ。敬、を探して行こう。敬を知ると恥を知るらしい。そうすればもっと団結できる。一番愚かな事は、こうして考える事を放棄した時だと思う。

死ぬまでいろんな事を考えて行こう。そして、それを後進に教えたい。こういう事を考える時、最近ボクシングを教える次に楽しい。

赤字にさえならねば、お金はもうそこまで興味がない。




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