それでも私は諦めない 後悔と反省の違いとボクシングから得た教育論
私は後悔というものを一度もした事がない。
但し反省はする。
「後ろを振り返って反省なんかするな、先を見ろ」。
よくそういう人がいる。
私はこれを正しいとは思えない。
過去の自分と今の自分が、どう変わったかは、10年前の自分を振り返り、今の自分と比較する事。
そうすると、変わっていない自分の悪い所が分かる。
それを治す事を反省、と言う。
地球上でそれができるのは唯一人間であり、猿やゴリラにはない能力である。
そう儒教で教わった時は、目から鱗だった。
モハメドアリの言葉に「過去と今を同じ様に見てる人は、その間の人生を無駄にしたという事だ」という名言がある。
アリの言葉をポリシーの一つとする私は、昨日と今日が同じだったら、明日は進化しようと考える。
さて、遡る事数年前。
私は多忙を通り越し、もはや夢遊病者の様な状態で、仕事とジムを両立させていた。
目を開けて寝る事なんか普通だった。
選手のパンチをミットで受けながら、夢を見て寝言を言う。
その寝言で起きるのだが、時間にすると2、3秒の事。
嘘と思うかも知れぬが、動画もあり多くの人が見ている。
自律神経は交感神経のみが動き、アドレナリンは、丸で確変が常に来るパチンコ台の様、永遠に放出する。
更に脳内コカインが出るような状況になり、最後はゾーンに入る、という恐ろしい経験もした。
苦にもならず、何故自分に不眠症が来ないんだろう。
それ程、仕事が楽しく毎日がスリルと波乱であった。
この時、反省した事がある。
これだけこちらが真面目にやってるのに、経営するボクシングジムのプロ、及びプロ志望で言って分からない、不真面目な者は切ろう、と決めた。
その中に、当時まだ16、7歳のYANAGIHARAジムでプロを目指す青年がいた。
今でも、この時切った者は戻ってこなくて良いと思うが、この子はまだ未成年だった。
切るべきではなかった、と反省した。
それに気付き、現在もうちにいる選手を通じ、彼に戻る意向があるかを確認した所、喜んでいた、という事であった。
「戻って良いんですか!頑張ります!」。
彼はジムに来てそう言い、私は行きすぎた事を謝ると、彼は目を輝かせた。
こうして戻って来た彼は、現在も頑張って、メデタシメデタシ、
とはならないのが、小説と事実の違いである。
思春期真っ最中の彼は、親に対し反抗期になってる様で、ジムを辞めたわけではないが、暫く来ていない。
この子のお父さんの友人と私が、数十年前からのお付き合い、という事もあり、お父さんと私は定期的に連絡を取り合う。
先日は一時間程、お父さんのお話を聞いた、
2人でこの子に、これは譲歩しない、これはこうだと話す日が今も続く。
私はこの子と、お父さんのどちらが良いとか悪い、という事を論じてるわけではない。
私が言いたいのは、今こそ数年前、私が反省すべき理由でこの子を切ってしまった事を、取り戻す為の機会だと思っている。
我ながらプラス思考はいい。
しかし、そこに反省という物がなければ正解にはならん、と思う。
この子が今何を考えてるか、何となくわかる。
私はこの子と親の間で何が起きてるか、表面上は知ってるが、根っこの部分は知らないし、そこに入ろうとは思わない。
まだ未成年の男の子が、仕事もせず親に反抗して生活は出来ない。
お父さんに「ずっと愛情は捨てないでください」と伝え、お父さんは「勿論」と言った。
多分、暫く足が遠のき、ジムに来辛いのだろうが、家庭とジムという2つで子供の教育をする。
そう決めたからには、今は2つの家をちょっと家出してると思い、私は気長に待つ。
狭い小倉北区なので、此方の思いは伝わるかもしれない。
伝わらなければ、一度この子がいるという所に行き、正面から向き合い、徹底して話を聞こうと思う。
それが教育であり、また54歳の私も、数年前に見た世界と、同じ様な世界を見ない事だと思う。
人はもうだめだと思うと、起き上がる事もできぬ。
しかし自分は出来ている、反省せずとも前に進んでいる。
そう思い生きていると、以前と同じ世界しか見えない。
いつかこの子が私の歳になった時、こう思える様になった彼とボクシングを観て、楽しく話せればいいなと思う。
ボクシングを教え、教育を考え、徳や義、仁や愛というものを知ると、所詮、人間とは失敗ばかりする生き物だと分かる。
しかし我々は、反省しそれを正しい行動に移す事の出来る、唯一の生き物である。
この事実を忘れず謙虚になり、行動を起こさなければ、ただ無駄に歳を取っているだけである。
それはあまりにも悲しい人生で、死ぬ時きっと後悔するだろう。
私は諦めないし、同じ過ちは犯したくない。
だからずっと反省して、子供や選手達と前に進む。