ミドルエイジの方へ聞きたい。貴方は執念かったか?そうであれば幸せなはずだ。
齢55にもなると、今後どう生きていこうかと意欲が湧き、半生を振り返ると、ああ自分は何て幸せで運のいい人生を送ってこれたんだろう、と感謝する。
私は婚期を逃し、この歳でまだ独身だが、ボクシングの教え子や従業員、地元の後輩なんかを入れると大家族になる。
つまりそれだけの子や弟に、教え教わり、未だ関係を持ち続けて生きてるんだと気付く。
憎しみや怒りも、八割方は無くしたら、あれだけ多かった敵や争う相手もいなくなった。
強いて言えば、別れた女性に買ってやった物を返せ、と言うような哀れな者と訴訟で係争中だが、一時は穏便に済まそうかと思った。
だが相手が、社会の公器である学校法人の親玉なので、天罰とは別に、訴訟をもう一つ放り込み、今まで無念に泣いてきたこの法人の社員の仇を打つ。
おまけに女性関係なんかで不法行為を形成する様な事が、もし有れば、どれだけ人を傷つけるか分からせようかなあ、なんて考える位で、他は至って平和で幸せである。
何故幸せなのか、考えてみた。
友と親と、死んだ師匠とボクシングとの出会いが大きい。
30歳代から20歳位の子達にボクシングを教えてきたが、中にはどうしようもない子もいたが、私は諦めなかった。
泣きたくなる程どうしようもない子もいたが、諦めず教え続けた。
才能があるとか、パンチがあるとか、そんな事はどうでもよく、素直に人の言う事を聞き、毎朝走る子を、私は見捨てたことは無い。
執念く25年もボクシングを教え、30年も会社を経営し、55年も生きてりゃあ、出来の良い子達ばかりが残るに決まってる。
昨日も今日も、そういう子達と話し、叱り、誉め、頼み事をしたりしてると、かの笹川良一さんの「人類皆兄弟」という言葉も、満更嘘では無い様な気になる。
今だからこう言えるが、人を育てるには根気がいる。
執念くなければ、教育も事業も継続はできない。
そして、一時的には道から逸れても、基本的な愛情や理念みたいなものが変わらなければ、必ず人は幸せになる。
世の中、つまるところ人と人だと思う。
歳を取り、友人を探す者は碌な者ではなく、昔からの友がどれだけいるかで、その人の価値がわかるというが、けだし名言だと思う。
私は小さな会社の社長で、プロの日本チャンピオンも出していないし、大金持ちでも無い。
しかし毎日家に帰ると、寂しい時は育てた教え子と電話で話したり、腹が減ると若い子の誰かが弁当を買ってきてくれる。
知らぬうちに黙って友達が助けてくれていたり、寂しいからちょっと来い、と言えばくる後輩がいる。
他のボクシングジムの会長も、近隣から遠方へと、気の合う仲間と遊び、仕事をし、忘年会や新年会をする。
何があっても逃げず、諦めず、人の為にと、執念く執念く助けたり教えたりすれば、その時の貯金は必ず返ってくる。
そして私の様に、何度も死にかけたり殺されかけたり、また、大切な人が病気や事故で亡くなる経験をすると、生きてるだけで「嗚呼、幸せ」とつくづく思う。
さて、今まで生きてきた年数と同じ位か、もう少し長い残りの人生。
これを考えるだけで、また幸せで夢を見れる。
兎にも角にも、今生きている事に一番感謝する。