やわらかな多面体
ある日、仲良くしていた子が突然、同じ席に着くと口数が極端に減るようになってしまった。私が席をはずすと普通に話をするらしいということで、私はその数人のグループを離れていろいろな人の席を渡り鳥することにした。
気心の知れた数人で固まりがちな交友関係から、いざ離れてみるといろいろな人と話す機会が生まれる。当初は進学したらいろいろな人と交流しないともったいないなと思っていた分これはこれで悪くないのかもと思っていた。
数年経ち、そうやってすれ違っていた友人とも卒業間際には二人でご飯を食べれるようになったりして、時間は大半の問題を解決するよな。なんて思っていた頃。そんな様子を見守ってくれてい友人が、「また普通に付き合えるのってすごいよね」とつぶやいたことを今もまだ覚えている。
その時の感想としては、彼女を嫌いになったわけではなかったから。理由もわからなかったし、多少困ったことは確かだけれど、私は直接彼女に暴言を吐かれたわけでもないし、何かされたわけではない。しかも彼女は個人的に私を避けていただけで、他の人間を巻き込むようなことはしていなかったから。それまでの彼女との付き合いを考えたら、今までのことがなかったことになるわけではない。仲良くしていた時の人間性を丸で無視して嫌いだというには十も百も足りなかった。
誰かのある一面を理解できないことはたくさんあると思う。私たちはまるで万華鏡かはたまた鏡か。相手に合わせて幾つも顔を変えられる。裏表のない人もあろう、けれど、相手との関係が違ければ見せる顔が、接する温度が違うことはあるし、それは悪ではないと思っている。
そうした姿を全て見ることはきっとじっくり長く付き合っていかないと難しい、というかどんなに長く付き合いがあったとしても見せる必要がないかもしれない。
そんな訳だからその多くの顔の中の一つを好きになれなくても、それは何個かあるうちの一つの顔だから、それだけで嫌いになってしまうのはいささか厳しすぎるんじゃないのか。と思うのだ。許しさえするならやり直すことはきっと何度でもできる。
もちろん意味もなく傷つけられて笑っていろなんて話ではない、怒るべき時は怒ったっていいけれど、一度や二度の過ちで全部をあきらめないで欲しいのだ。
好きなご飯が合わなくても、政治的な思想が合わなくても、宗教が違くてもたぶん理解できる一面はある。極論、あなたと誰かがどうしたって合わなかったとして、他の誰かがあなたと仲良くできるように、合わなかった誰かはまた違う誰かと絆を築くのだと思う。
だから、難しいことであったとしても、風の噂や、だれかの伝聞で印象を勝手にねじ曲げて穿った見方をして、目の前の人のことを損なうことがないように。ちゃんと今見ているものを正しく見られるように。個人のいろいろな面を追いかけることができる現代だからこそ、自分が色眼鏡をかけていないか、ちゃんと意識していきたい。