不完全なるものの美 ――『いるかにうろこがないわけ』と電波ソング
私はミステリー小説やミステリードラマが好きだ。バラバラに思えた断片がつながる瞬間が好きだ。そして、直接的なミステリー作品でなくとも「ミステリー的な構造」をもつものも好きだ。『いるかにうろこがないわけ』もそんな作品の一つだ。
『いるかにうろこがないわけ』は、2023年に同人サークル「月間湿地帯」がリリースした2Dシューティングゲームである(リンク)。この作品には「シューティング」と「物語」という2方面の魅力がある。
「シューティング」としては、一度に一発しか弾を撃つことができず、撃ち逃すと残機を1失うという、レトロで硬派なゲームシステムになっている。全64ステージで構成されており、各ステージの画面下には1~2行の短い文章が添えられている。64ステージの文章を繋げて読むと、タイトルで示されている通り「海豚に鱗がない理由」が明らかになる。なんでも、古代の海豚には鱗があったが、ある出来事をきっかけに鱗がなくなって現在の姿になったというのだ。
プレイしている最中に、このストーリーを丁寧に読んでいる暇はない。序盤こそ読む余裕はあるものの、後半になるとステージが始まった途端に自機に向かって突進してくる敵や、大量の弾を撒き散らす敵がおり、急いで対応せざるを得ない。そして全ての敵を倒すと、休む間もなく即座に次のステージに進んでしまうので、ほとんど物語に目を通す余裕はない。
じっくり文章に目を通す余裕がない。
これが実に優れた「物語体験」を生み出しているのだ。
プレイヤーごとに、どの断片が記憶に残るかは異なってくる。人によっては、主人公がいるかの体から砂を洗い落とすシーンが印象に残るかもしれないし、落ちているうろこを拾うシーンが印象に残るかもしれない。あるいは「キュイキュイ」という独特の鳴き声だけが印象に残った人もいるかもしれない。
この物語は、プレイヤーごとに記憶に残る箇所が異なっている。そのことを想うだけで、私は少し楽しくなる。もともとがお伽噺のような民間伝承のような取り留めもないストーリーなのだから、人々の記憶に残るのは断片でもよいではないか。
全てのプレイヤーに共通して記憶に残るのは、繰り返し読まされる「1ページ目」の書き出しだ。
この書き出しが、実によいと思う。
「ひとつの戦争が終わり」というフレーズは、文法的にはなんら誤りではないが、まるで海外の文章を日本語に翻訳したかのような独特のぎこちなさがある。古代の都市国家キュイプロスで語り継がれる伝説が、日本に紹介されてきたかのような臨場感がある。
また、「海豚に鱗がない理由」という一つの大法螺を吹くにあたって、まず最初に「大量の人魚が死んだ」という別の角度からの大風呂敷を広げだす唐突さも、また良いと思う。
・・・・シューティングを目当てにプレイしたユーザーは、全64ステージをクリアした後にじっくり物語を読み直すとは限らない。かくいう私自身がそうで、ラスボスを倒したあと物語を追い直すことはしなかった。クリアしてから1年も経ったときに、YouTubeのおすすめ欄に本作のRTAを見つけ、改めて物語を追い直した。
作者の方には申し訳ないが、全てのストーリーを読み直したとき、想像を超えるほどの感動はなかった。なぜなら、断片的に私の頭のなかに刻まれていたストーリーの欠片のほうが、ずっと魅力的に輝いていたからだ。
私はこの記事の冒頭で、ミステリーが好きな理由として「バラバラに思えた断片がつながる瞬間が好きだ」と書いたが、正確には「つながる瞬間」ではなく、その前段階の「つながりそうな予感」が好きなのかもしれない。
心理学の世界に「ツァイガルニック効果」という言葉がある。人間は完成した物事よりも、未完成に終わった物事のほうが記憶に残りやすい、というものだ。
『いるかにうろこがないわけ』はまさにそうだ。物語を目当てとせず、シューティングを目当てにやってきたプレイヤーにこそ、未完成で印象的な物語が知らず知らずのうちに与えられる――。
話は飛ぶが、私は電波ソングやアニメソングの類も好きだ。
もちろん好きな第一の理由は、ハイテンポでポップなメロディや可愛い女性のボイスに魅かれるからだが、副次的な理由として、それらがミステリー的な構造を時として持つことが挙げられる。一体どういうことか。
電波ソングは、テンポが早くて、声のキーが高いことが多い。おまけに私は耳があまりよくないので、初見では歌詞が聞き取れないことが多い。私は電波ソングをまず「メロディ」として愉しむ。メロディが6で、ボーカルが3で、歌詞が1の比率だ。
もっとも、私に限らず現代人はそういう人が多いことだろう。YOASOBIの『アイドル』も、Creepy Nutsの『Bling-Bang-Bang-Born』も、初見で歌詞を聞き取れる人はいないだろう。
私は歌詞が聞き取れないまま、メロディとして楽曲を愉しむ。Spotify などで聴き流しているため、たいてい歌詞を読むことはない。何回も何十回も聴いて、メロディが耳に馴染んできて、お気に入りの楽曲になった時にようやく「そういえばこの曲は何と歌っているんだろう」と思って、検索する。最初にその曲を聴いてから、1年ぐらい経っていることもある。
歌詞を読んでハッとする。自分が思っているのとは全く違う歌詞だったり、日本語のように思わせて実は英語だったり(あるいはその逆だったり)、意外な言葉遊びが入っていたりするのだ。
『クローバー♣かくめーしょん』の「Going My Way」と聴こえていた箇所が実は「強引に前へ!」だったり、『ジニアスリズム』のアルファベットを連呼している箇所が元素名の羅列だったり、ちょこちゃんの『もー!』のアルファベットを羅列している箇所が繋げて読むと「LOLICON」だったすることに気づいたとき、ハッとして他では味わえない快感に包まれる。
頭のなかの断片と断片がつながって、意外な構造をとる。これが、私が「ミステリー的な構造」と呼ぶものである。
こうした言葉遊びは一般的なJ-POPの世界にもあるとは思うが(特に日本語←→英語については、いわゆる「日本語ラップ」の歴史のほうが古いとは思うが)、個人的には電波ソング・アニメソングのジャンルで遭遇率が高いように思う。もっとも、私がそういう楽曲しか聴いていないせいかもしれないが。
――ここで強調したいのは、自分に対して「謎」が出題されている感覚がまったくない、ということである。
推理小説を読むときには「隠された情報」があることを前提として読むが、音楽を聴くときには「隠された情報」があることを予期して聴いていない。むろん歌詞を見ずに音楽を聴いている以上、「未知の情報」があることは確かなのだが、その中に自分をハッとさせるような意外で面白い情報が常に詰まっているとは想定していない。
音楽を初めて聴いたとき、知らず知らずのうちに「謎」を仕掛けられていて、半年後、1年後に歌詞を見たときに唐突に「答え合わせ」が始まる。このときの感覚が、電波ソングをより好きになる理由の1つとなる。
再び話は飛ぶが、私は若いとき精神科医フロイトの理論に魅かれて、関連書籍をいくつも読み漁っていた。
フロイトは言う。夜に見る「夢」は一見すると無意味なストーリーの連続だが、実は無意味ではない。正しく「夢判断」をすれば、隠された意味を読み解ける可能性がある。
大人が見る夢は「無意識」による「検閲」を受けている。子どもの夢には、ストレートに自分の欲望が出てくることが多い。しかし大人になるにつれて「無意識」が内容を歪めてしまい、欲望はストレートに表現されず、奇妙な回りくどい形をとって現れる。しかし精神科学の専門家が見れば、その夢の本来の意味を解読できるかもしれない...。
一見、無意味に思える断片と断片がつながる――。その発想は若き日の私を魅了した。
そして夢は、完全に100%読解できるとも限らないのだ。どんな暗号文でも暗号表と照らし合わせれば絶対に元に戻せるように、すべての夢を簡単に、完全に読解できるわけではない。
解けるかもしれないし、解けないかもしれない。不完全な「可能性」。すべての電波ソングに意外な答え(歌詞)が用意されているとは限らないのと同じで、すべての夢が几帳面に順序良く解かれるとは限らない。
三度話は飛ぶが、かつてフランスにはジャック・デリダという哲学者がいた。日本では東浩紀が研究対象としたことで有名なデリダ。彼は、この世界を「暗号」に満ちているものだと考えていたようだ。ここでいう暗号とは、解けるかもしれないし、解けないかもしれない情報の束を指す。所定のガイドブックを使えば、必ず元の意味に復元できるような単純なものは、彼の言う「暗号」ではない。いつ出題されているかも気づかないうちに、いつの間にかこの世界に出題されていて、もしかしたら誰かが解けるかもしれないものが「暗号」だ。まぁ、このへんは東浩紀の受け売りだし、もしかしたら私の読解力が低いせいで全然間違えているかもしれない。ただ少なくとも私は、デリダのことを「そういう主張をしているっぽい人」と捉えている。
私は正直いって、彼の思想にそれほど感動したことはないのだが、彼の言う「暗号的なもの」に心魅かれることが多いのは確かだ。『いるかにうろこがないわけ』も、電波ソングの歌詞も、フロイトの理論も、私が心魅かれるものはそうした「ミステリー的な構造」を秘めている。
私はこの記事の冒頭で、ミステリー小説やドラマが好きだと書いた。しかし面倒くさいことを言うようだが、ミステリー小説を読んで辟易とすることも多い。特に几帳面に作られた「パズラー」の類は、読んでウンザリしてしまうことがある。
ミステリー小説では、最初に「謎」が提示され、最後には「謎」が明らかとなる。そのことが余りにも分かりきっている。どうせ最後まで読めば賢い名探偵が謎を解いてくれることは分かりきっているのだから、自分が頑張って考えなくてもいいだろうという気分になる。さらには、作者自身が考えた謎なのだから、そりゃ解けるだろうと思うことさえある。
丁寧に作られたミステリーには「不意打ち」がない。几帳面なミステリー作品は、最初に解くべき「謎」をしっかりと提示し、そして最後にはしっかり解いてみせる。
私の心を踊らせるものは、そんなものではないのだ。