メディアの話その128 自己啓発の時代とハードボイルドと007の終わりと.
とある選書百冊が、ツイッターでいろいろと話題(炎上)していた。
「自己啓発」本ばかりでキモい、という評が目立っていたんだけど、実際には、良書もたくさん含まれている。
炎上意見のほうもちょっと「雑」だなあ、と思ったりしたもした。実際にはほとんど読んでない人が炎上させている部分もあるかもしれない。
あのラインナップがずらっとならんでいることそのものに拒否感を覚えた。あそこに小説や、科学書や、哲学書や、ノンフィクションなどがない。そこが気持ち悪いのだ。。おそらく炎上意見の裏側にあるのは、そんな感覚だろう。つまり「教養」の書がない。「自己啓発」の書ばっかりではないか。そんなひとたちがいるのは、理解できる。
ちなみに、ビジネス書や自己啓発書が、大手出版社含め、書籍のラインナップの中心になったのって、そんな昔の話じゃない。2000年代入ってちょっとたってからだったはず。
なぜこのタイミングだったのか。
1996年から2008年まで書籍の編集者をやっていた当時者としての実感をちょっと思い出した。
1990年代半ば、勤め先に突然書籍部門ができた。書店用の雑誌コードを取得した(日経クリックとか、市販雑誌をはじめてたちあげたので)、おまけのようなかたちで、書籍部門がスタートした。
私自身は会社で明らかに暇そうな部署(教育出版部)で暇そうにしていたので(実際暇だった、そのうえ上司もいなく一人部署だった)、32歳にして、突如本の編集をやらされることになった。
90年代半ばはまだ、ビジネス書や実用書は出版業界では明らかに「一段低く見られている」分野だった。大手出版社はほとんど手を出していなかった。新書にもビジネスだの自己啓発だのの匂いはゼロだった。まさに教養主義が書籍市場の中心にあった。また、日本の大手出版社は物理的に文系的世界でできていた。理工系の、とりわけパソコンやインターネット関連の実用書を出すために必要な理工系の編集者がきわめて少なかった。
結果、ビジネス書と実用書の市場はちょっとした「ブルーオーシャン」だった。
おかげで経験ゼロ、コネゼロ、やる気もあんまりない私でも、なんとか本をつくる機会をもらえた。
いまのように、あらゆる出版社がビジネスや自己啓発市場で凌ぎを削っている時代だったら、私のようなへっぽこが出る幕はゼロだった。
そのくらい「誰もいなかった」感が強かったのである。
私が勤めていた会社は、多様なパソコン雑誌とインターネット雑誌を次々創刊したが、いずれも十数万部以上売れた。しまいには、日経パソコンが40万部を超え、機関媒体の日経ビジネスの30数万部を抜いてしまった。そんなブルーオーシャンに、大手出版社はどこも入ってこなかった。いや入れなかった。ビジネスとか実用とかとりわけ理工系実用を扱う人がおそらく社内にいなかったからだろう。
一方、90年代後半は、時代の潮目が年単位で変わったおっかない時代である。94年からの就職氷河期。95年の阪神大震災、オウム事件。ウインドウズ95発売に端を発するパソコンブーム。97年の金融大崩壊。そして世紀末のITバブル、ベンチャーバブル。そして2001年の911。
時代が激変して「先が見えない」。だからこそ「先が見える気分のなにか」を求める人たちが、おそらく相対的に増えた。日本だけじゃない。世界的に増えた。
結果どうなったか。
2000年代に入り、一気にビジネス書や自己啓発書の市場が百花繚乱になる。大手出版社も参入し、新書も「教養」から「ビジネス」「実用」「自己啓発」のジャンルが増えていった。これは、時代のパラダイムシフトの90年代後半を受けてのものだった、と感じている。
「先の見えない」不安という市場は、20年後のいまも続いている。まだまだ続くだろう。だから、未来への不安を減じてくれるビジネスと予測と自己啓発の掛け算の市場はなくなるどころか、大きくなるはずだ。その意味では、炎上したリストは、一つの象徴のような選書と、いえるかもしれない。
で、唐突に007である。
実は007は、教養の時代から自己啓発への時代の変遷をもっとも明確に表している作品群なのだ。
最新作にして、ダニエルクレイグのジェームズボンドの最終作品である。 NO TIME TO DIE を見た。
ここから先は壮大なネタバレが入るので、まだ見てない人は読まないでください。
007は60年代に映画がスタートした。32歳にして胸毛もじゃもじゃでカツラのおっさんくさいダンディ、ショーンコネリー演じるジェームズボンド。その特徴はなにか?
内面がない。これにつきる。
任務遂行と美味いタバコと酒と女が大好き。
以上である。これって、要するにハードボイルド小説の文法である。
ボンドの内面はいっさい映画で語れない。彼は、クールに任務=殺しを遂行し、アストンマーティンで傍若無人な運転を繰り返し、魔法のように目の前の女を落とし、落とした女はすぐに殺され、すると次の女があらわれ、そんな女を手元におきつつ、ラスボスを巨大爆発とともに倒すのであった。内面なしで。
その内面のない、容赦ない、お酒とタバコと女が大好きなジェームズボンドが、世界を席巻した。私がはじめて見たのは、1970年代中頃のテレビ洋画劇場だったけど、70年代もまだ「内面なきヒーロー」は時代を席巻していた。
ボンドと同じ時期に、世界を席巻した内面なきヒーローは、たとえばクリンとイーストウッド演じるマカロニウェスタンの風来坊だ。彼になると、内面どころかセリフもほとんどない。70年代に入ると、香港から内面なきヒーローが現れる。燃えよドラゴン。ブルースリーだ。
一方、日本からも内面なきヒーローが生まれる。ルパン3世だ。
ルパンは、まさにボンド映画やマカロニウェスタン、そしてベルモンドのアクション映画といった「内面なきハードボイルド」の影響下にうまれたキャラクターだ。
で、面白いのは、007や夕日のガンマンや燃えよドラゴンやルパン3世のような、内面なきヒーローの時代、読書で好まれていたのは小説であり、教養書であった。
なぜだろう。時代は東西冷戦さなか。敵味方がはっきりしている時代だった。経済はぐいぐい成長していた。そんな最中、ひとびとは、「内面」よりも「教養」が「好奇心」が重要だった。
自分の人生や仕事の行く末は、高度成長なので、サラリーマンやってれば、55歳定年で、老後がやってきて70歳くらいで死ぬ。安定の人生である。悩む必要はない。
そんな「内面なき高度成長と東西冷戦」時代のヒーローたち。そのいちばんの象徴がジェームズボンドだった。
ところが、2000年代に誕生したダニエルクレイグ版のジェームズボンドは、キャラが激変した。
風貌は、ショーンコネリーの打ち立てた、長身痩躯でキザでクールなジョークをキメ、感情をあらわにしない、ハードボイルドダンディではない。
身長は高くない。短髪のブロンドのブルーアイ。鍛え上げられた上半身。敏捷な身の動き。あきらかに、かつてのスターで言うと、スティーブマックイーンのいでたちとみのこなしを意識した演技。
が、もっと異なるのは、「内面」だった。
クレイグボンドは、すぐ泣く。内面出しまくりである。出てきた実は敵の女にいきなり惚れちゃい、せっかく00ナンバーもらったのに、いきなり隠居を考えちゃう、「最近の若いモン」なのだ。石の上にも3年じゃないのだ。せっかく昇進したのに、いきなり転職かよ、田舎に。Twitterにでてきそうな話。それがデビューのカジノロワイヤル、である。
じゃあ、つまんなかったか、というと、むちゃくちゃ面白かった。そしてむちゃくちゃ売れた。ダニエルクレイグはシリーズ屈指の人気ボンドになった。
で、今回の作品である。
内容の細かい話は書かないが、冒頭、いきなりとある曲が流れ始める。「女王陛下の007」の主題歌だ。不穏にしてボンド映画の髄を集めたメロディ。
おや、と思った。
そして最後のシーン。
実はコマーシャルでも気付いていたのだが、今回のボンドが乗るのは、アストンマーティンの中期モデルである。このかたちに変わったアストンを最初に乗ったのが女王陛下の007のときのジョージレーゼンビーであり、次に乗ったのは、80年代終わり、2回だけボンドになったティモシーダルトンのとき、である。
最後、このアストンマーティンが、崖沿いを走る。乗っているひとの話は書かない。が、にぶい私も気付いた。
あ、これは、「女王陛下の007」の返歌だ、と。あるいは、ラストシーンがまさに反転するパラレルワールドだ。もし、あっちが死んで、こっちが生き残ったらどうなったんだろう。それが描かれ続けていたのが、クレイグ版007シリーズだったのだ。
エンドロールに流れる「あの曲」が私の気づきを確信に変えた。イギリスで007は、忠臣蔵みたいなものだから、みんな見ている前提である。誰もがわかるかたちで、クレイグ版ボンドが、女王陛下の007で「早く描きすぎた」テーマを40~ 50年後に結実させたものだった、ということがわかった。
そのテーマとは何か。
ジェームズボンドが内面を持つ時、である。
女王陛下の007は、初期のボンド映画唯一の「恋愛映画」である。
実はそのまえに、007はマンネリ化していた。ショーンコネリー版のボンドはやりつくして、2度死ぬでついに日本まで来ちゃった。半分SFである。もう風呂敷を広げきれない。コネリーも降りたがっていた。
そこで、気鋭のモデルのジョージレーゼンビーが起用され、女王陛下の007が誕生した。テーマは、ボンドの悲恋、である。つまり、ボンドの内面が初めて描かれた。
この映画で、ボンドは最後涙を流す。泣きやがるのだ、あの殺し屋が。
この恋愛映画としての007の路線は、おそらく失敗におわった。レーゼンビーは一度で降板。ショーンコネリーが再び登板し、しかし「ダイヤモンドは永遠に」という凡作1度で彼は去った。
そのあとをついだのはロジャームーアだ。
ロジャームーアのボンドは、コネリーボンド以上に「内面」を排除した。よりユーモラスに、逆をかましながら、エレガントに美女を口説き、壮大な仕掛けで敵を倒す。
初期2作はもたついたが、おそらくその後のあらゆるスパイ映画のお手本となる正しい大風呂敷映画「私を愛したスパイ」で、ムーア版ボンド映画の「内実なきエンタテインメント」はピークに達し、ひとつの文法を確立する。
トムクルーズのミッションインポッシブルも、オースティンパワーズも、キングズメンも、この「私を愛したスパイ」がなければ、存在しえない。
ところが、80年代後半、ロジャームーアが降板すると、007は再び内面映画にしようとあがく。ティモシーダルトンの2作だ。ダルトンはなんだかいつもベソをかいているような顔をしていて、2作目は親友の仇討ち映画で、完全に復讐譚である。が、めそめそいじいじしていて、内面なきスカッと感のないダルトンボンドは、まったく受けず、もはや黒歴史的に封印されている。
そのあと、でてきたピアーズブロズナンの007は、内面なきボンドの集大成だった。コネリーのハードさとムーアのエレガントとユーモアを見事にミックスしたブロズナンボンドは、内面なき90年代を駆け抜けた。敵側にねがえった元被害者であるソフィーマルソーを躊躇なく射殺し、もう一人の美女と帰還するブロズナンボンドは、内面なき=女と寝るが恋愛しないボンドの真骨頂である。クレイグボンドだったら敵に寝返っちゃうところである(そういう言及、実は新作である)。
そんな「内面なきヒーロー」という確立されたボンド像を、あえて破壊して、うじうじ悩みまくる内面まみれの若造ボンドという新しいキャラを成功させたのが、クレイグボンド、だった。
そして、そのキャラクターとドラマ設定の源流は、女王陛下の007にあったわけである。
この内面ありまくりのボンドが受ける21世紀の空気は、教養から自己啓発へ書籍のトレンドが変わった空気と呼応する(と、強引に思っている)。
巨大なパラダイムシフトが起き、昨日までの仕事がなくなり、明日が見えない。敵も見えない。いるのは巨悪ではなく、小さな悪意がテロ的に偏在する世界だ。大きな物語に身を委ねられない。不安で仕方がない。だからこそ、内面を「啓発」しなければ、つらくてやっていられない。
悩みまくりで、家族から逃げ、家族を希求し続けた、およそハードボイルドと正反対のダニエルボンドは、つまり、自己啓発をもとめる「私たち」である。
ちなみに、内面なきハードボイルドの日本代表選手、ルパン三世を、「内面ある」男に変えてしまったのが、宮崎駿さんである。
第二シリーズの最後、さらば愛しきルパン(まさにタイトルはハードボイルドなんだけど)は、それまでの内面なきギャグとアクションだけのルパン三世のキャラを「偽物」として全否定し、そのまま「カリオストロの城」につながる、少女を助けるやさしい盗賊騎士ルパン、というキャラに変身させてしまう。
実はリアルタイムで、このラストとカリオスロをみたとき、気持ち悪くてしょうがなかった。ルパンが少女の肩だけない、純情お兄さんだったら、それルパンじゃないだろ!もっとクールにハードにいいかげんに!と思ったわけである。顔もアルプスの少女ハイジにでてきそうな善良そうな顔をしている。内面ある宮崎ルパン、大っ嫌いだったんですね。
で、おそらく市場もそう思った。カリオストロの城は大コケした。クールでハードなルパン三世を描いた映画、マモー編は大ヒットしたのに。
ところが、面白いもので、自己啓発の時代であるいまみると、作画のすごさもあいまって、心優しき宮崎ルパンが、フィットする。
ルパンはその意味で007と同様、内面なきキャラを内面だだもれキャラに変えることで失敗し、でも、その種を巻いたことで21世紀まで生き延びた。
つづきます、たぶん。