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メディアの話 坂本龍一と街とプラットフォームとコンテンツとイオンとデニムを売る着物屋と
清澄白河の東京都の現代美術館に、平野友康さんと坂本龍一さんに会いに行った。
そのあと、カレーを食べてエチオピアコーヒーを飲んで、平野さんはデニムの和服を買っていた。
そこで話したことをメモがわり。
メディアは、ハードとコンテンツとプラットフォームでできている。
例外はない。
実は、街もメディアであるからして、おんなじである。
ハードとコンテンツとプラットフォームでできている。
ところが、多くの人がコンテンツとプラットフォームをごっちゃにする。
区別がついていない。
典型が、東京的街ではない「それ以外」の日本の「郊外風景」を画一的だ、と言ってしまう意見である。
こうした意見は、判で押したようように、
イオンモールと、ドラッグストアと、ファミレスと、家電量販店が幹線道路に並ぶ景色を、画一的で文化がない
と話す。
街というものが、何もわかっていない意見である。
理由は明白である。
イオンモールも、ドラッグストアも、ファミレスも、家電量販店も、コンテンツではない。
プラットフォームであり、インフラなのだ。
電気、ガス、水道、電話回線、そしてインターネット、と同じである。
交通システムと同じである。
電気ガス水道電話回線インターネットに「個性」なんか必要ない。
あったら困る。
プラットフォームであり、インフラだからである。
モールもドラッグストアも同様である。
その地で生きていくために、必須のライフラインである。
必要なのは個性などではない。必ずあること、である。
イオンもドラッグストアもファミレスも家電量販店も、そこに暮らす人にとっては、ライフラインである。
ないと生活が困難になる。
電気水道ガスと同じだから、いつでもあいていて、すぐにアクセスできて、品揃えが豊富で、お値打ちであればいい。
個性?
プラットフォームに必要なのは自己陶酔型の個性などではない。
安定供給である。
バスや電車の発着が「個性的」だったら困る。
定刻通りに来て欲しい。
同じである。
こう書くと、いや、かつては、地方にも商店街が、というかもしれない。
日本の地方も、京の私鉄沿も、駅前商店街の大半は、昭和になってできたので、さらにその大半は、終戦後、焼け野原からできたものだ。
せいぜい70年である。
そして、あの商店街は、なんちゃら銀座という、チェーン化されていないがフォーマット化された形式で、どこもできていた。
そこに八百屋魚屋肉屋文具屋本屋電器屋床屋不動産屋飲み屋玩具屋映画館が並び、駅前商店街となっていたわけである。
あれもまた、コンテンツなどではなかった。
プラットフォームである。インフラである。
あの時代、そこに住む人たちに絶対に必要な日常のライフラインだったのだ。
その商店街がさびれるようになったのは、1990年代半ばからである。
実はイオンが普及するより前から始まっている。
私の実家のある浜松では、駅前の凋落は90年代のバブル崩壊が引き金となった。94年に丸井が撤退し、97年に西部が撤退し、2000年に地元名門百貨店の松菱が倒産し、ニチイも潰れ、イトーヨーカ堂も亡くなった。
死屍累々であるが、俗説で言われるイオンのせいなどではない。
イオンが出てきたのは、2000年代半ばからで、その時点で浜松の駅前商店街はとっくに潰れていた。
現在の浜松駅前は、歯抜け状態が20年続いている。
でも、自動車が運転できる地元住民は誰も困っていない。
ライフラインとしての、郊外型店舗は、かつての駅前商店街より、よりカジュアルにより便利に利用できるようになっているからである。
駅前商店街から、郊外モールへ。
これは、プラットフォームが代替されただけなのだ。
そう、メディアのこの20年の変化とピッタリ呼応する。
雑誌や新聞は、プラットフォームとしてのインターネットに取って代わられた。
あれとおんなじである。
じゃあ、街にはメディアのように「コンテンツ」はないのか?
もちろんある。
清澄白河の街を歩くとわかる。
古い商店街は歯抜けの部分もあるが、古い店、新しい店が、混在して、古い住民、新しい住民、観光客、デート客、みんなを吸収している。
平野さんとご飯を食べたのは、雑居ビルの2階にあった、凝ったカレーを食べさせる店だった。英語の堪能な女性が一人でやっていて、美術館の前ということもあり、私たち以外は全員外国人客だった。
野菜を丁寧に料理した前菜。美味しい紅茶。そして控えめだけど複雑な香りを漂わせた豚のカレー。
絶品である。他で食べたことがない。
たまたまふらりと入ったが、また行きたい店である。
この店は、プラットフォームか?
違う。
これこそがコンテンツ、である。
そこにしかない。わざわざ行きたくなる、お店の人の顔が見える。そんな場所。
そのあと、創業100年の着物屋さんに立ち寄った。豪奢な反物が奥に見えるが、可愛らしい和装の品々と、デニムの着物が前に。平野さんは思わず、デニムの着物を買ってしまう。
若女将がにっこり笑って対応してくれる。
「似合ってますわ」
買わざるを得ないですね、平野さん。
しかもお値打ちである。
この店もまたコンテンツ、である。ここにしかない。見たことのない、老舗。
さらに歩けば、和風パンケーキのコースを食べさせるカフェ。
墓石を売っている石材屋の一角で、キリリとしたマスターが立ち仕事でコーヒーを入れている。二人で入って、エチオピア産とコロンビア産のフルーティな浅煎りのコーヒーをいただく。
いつからやってるんですか?
まだ去年3月からなんですよ。オーナーが前もお店やってたんですが、新たに引継ぎまして。隣はモロッコ料理屋さんなんですが、今、シェフが帰ってるので、休業です。
カウンター席だけのこぢんまりとした店。路地から中が全部見える。
道をいろいろな人が通り過ぎる。
もちろんこの店も、コンテンツ、だ。
街におけるコンテンツとは、そこでなければ出会えない場所のことである。大半の場合、中心には「人間」がいる。
大切なのは、「ヒューマンタッチ」である。
プラットフォームに、ヒューマンタッチはあってもなくてもいい。
でも、コンテンツにはヒューマンタッチが必須である。
その「人間」、あるいはその人間が作り出すかけがえのない何かを求めて、客はやってくる。そんな場所になったら、コンテンツとしてのその場所は、持続する。
スナック、というのは、場所と人だけでできた」「コンテンツ」産業のお手本である。インフラでもプラットフォームでもない。不要不急の存在だし、そもそも標準化されていない。
にもかかわらず、全国津々浦々にスナックはある。人々が、スナックというコンテンツを個別具体的に求めるからである。
スナックはヒューマンタッチの塊、である。
街を作る、というのは、プラットフォーム部分とコンテンツ部分と、両方を備える、ということである。コンテンツだけだったら、そこに人は暮らせない。葉山の海水浴場とおんなじで季節限定になってしまう。
一方でプラットフォームだけだったら、味気がない。人間はライフラインだけでは楽しめない、贅沢な生物だ。誰もが寂しがり屋なのである。人が作った「営み」のご相伴を預かりたいのである。
でも、まずはプラットフォームが備わっているかどうか、である。電気が通じてなかったら暮らせないのとおんなじである。
日本の津々浦々は商業プラットフォームがこの30年で行き渡った。
結果、自給自足的「田舎」は本当に少なくなり、見た目は山奥でも、自動車で20分走れば、プラットフォーム的モールにアクセスできる、というところが大半になった。
それが「それ以外」の街の実相である。
ただし、その街に「わざわざ来たくなる」要素となるのは、プラットフォームではない。コンテンツである。
ライフラインに「わざわざ」はない。わざわざは、コンテンツの魅力、である。
そのコンテンツは、個別具体的ではあるが、ジャンルとしては、どこでも共通している。
地産地消の「食」と、地産地消の「教育」である。