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メディアの話その134 1955年の「キネマ旬報」が教えてくれる、街を創ったメディアとしての映画。八戸に18の映画館があった時代。

街をつくったのは映画館というメディア装置だった。 戦後、焦土から立ち上がった鉄道資本主義の街、あるいは古い街道街を、にぎやかな場所にした最大のコンテンツ、それは「映画」だ。

私の手元に1950年代のキネマ旬報が4年分ほどある。

蔵書家だった母方の祖父、西岡彦太郎(1980年没)が、映画好きだった私に生前プレゼントしてくれた。中学卒業の頃だった。

この時代のキネマ旬報には、映画にまつわる面白い連載がたくさんあるのだが、「都市論」「メディア論」で注視すべきが、「新・盛り場風土記」というフォトルポルタージュだ。

毎回4ページを使って、県庁所在地や都内の代表的な盛り場を写真でルポする。映画雑誌だから、もちろんメインとなるのは「映画館」の紹介だ。

たとえば、1955年12月上旬号には、青森県八戸市が紹介されている。

当時の人口14万人。そこになんと18館もの映画館がある。
八戸港にはなんと「鮫映画劇場」なんてのものある。「ジョーズ」が公開される20年以上前の話である。

 どの街にも10館前後の映画館があるのが当たり前。それが1950年代前半の日本のあらゆる都市の平均像だった。

1945年に多くの都市が焦土と化した。 だから、こうした映画館の多くは1950年前後に建てられている。

昨日、私が訪れた茨城県の江戸崎。鉄道の通っていないこの街の中心街荒宿にも、調べてみると2つの映画館があった。 ひとつが、江戸崎国際劇場。開館年 : 1950年7月 閉館年 : 1960年以後1963年以前。 もうひとつが江戸崎映劇/江戸崎映画劇場 開館年 : 1950年2月 閉館年 : 1966年以後1969年以前 いまこのエリアにあるのは10キロ以上先のUSシネマパルナ稲敷1軒だけである。 https://hekikaicinema.memo.wiki/d/%B0%F1%BE%EB%B8%A9%A4%CE%B1%C7%B2%E8%B4%DB

ちなみに現代の八戸市にある映画館はたった1つ。
チーノ八戸という商業ビル5階に入ったフォーラム八戸、だけである。

映画というメディアコンテンツは、かつて映画配給というプラットフォームで流通し、映画館というハードウェアのみで鑑賞が可能だった。

映画館は当然、街中にある。しかもたいがいは、その町の駅前や繁華街といった、人の集まる場所にある。 そして、映像コンテンツは映画しか存在しない。

テレビ視聴がスタートするのは1953年になってから、カラーテレビの普及は1960年代後半である。 人々は、映画という映像コンテンツを楽しむために、わざわざ街に出向く。必然、その過程で、街中で消費をする。買い物をする。食事をする。酒を飲む。交通手段を使う。

いかに人々が映像コンテンツとしての映画を欲していたか。

それは、八戸に18もの映画館があったことをみれば、一目瞭然だ。

つまり、映画というメディアが、街の賑わいを支えていたわけである。
マクルーハン的にいうと、街はそれ自体がメディアであるが、そんな街のメディア力=人々を集め、人々を消費させ、人々にコンテンツを与える、の真ん中に、間違いなく映画というメディアが存在していた時期があった。

1960年代にテレビが普及すると、街をつくるメディアとしての映画の力が相対的に衰える。

ウルトラマンは視聴率40%を超えていた。が、それはつまり、かつてならば週末親子連れでゴジラを見に行った家族の動きが、お茶の間にとどめた、ともいえる。

戦後の街をつくったメディア=映画。

いま、映画は、ネットフリックスやアマゾンプライムを通じて、インターネット上の重要な集客コンテンツとしての地位を新たに確立した。

そして、おそらくメタバースの台頭で、映画は映画館的皮膚感覚の機能をもりこんだ、文字通りバーチャルリアリティな体験を、ユーザーに与えるコンテンツとして、メタバース空間で展開されるだろう。

その一方で、インターネットどころかテレビもなかった時代に、街を賑わす最強のメディアだった映画の役割が、リアルな街でも復活しないだろうか。シン街道資本主義、メタバースやミラーワールドを前提とした、自動車で移動する街に、新たに持たせること、できないだろうか? 

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