究極の選択に迫られた話
みなさんは「究極の選択」をしたことがおありだろうか。実を言うと、私は何度か経験している。限られた時間のなかで最良の選択肢を選び取ることは、決して簡単なものではない。時には大きな犠牲さえ払う必要があるのだ。
今回は人生初の海外旅行ロシア・モスクワに行った時の話をしよう。
私はロシアへ行くにあたり観光ビザを取得したのだが、パスポート最強国日本にとってビザが必要な国の方が稀だと知らなかったほど、海外旅行に疎かった。
地球の歩き方を読み込んでいると、欄外の旅行者のコメントに
「トイレットペーパーは流せないので備え付けのゴミ箱に捨てる」
と書かれてあるのに気づく。
なるほど、水流が弱いせいなのかペーパーの質のせいなのかは知る由もないが、とにかく便器には流せないのだと。
そういう不便さも含め、海外旅行の醍醐味はあるものだとワクワクした。
モスクワのシェレメチェヴォ空港で始めてトイレに入ったときも、ホステルで利用した時も、私は忠実にペーパーを流さないことを守り続けた。
ところがである。
あるトイレでなんとなくぼんやり用を足した後、トイレットペーパーをいつもの習慣で便器に投げ入れてしまったのだ!
しかも、掃除のオバサンらしき人が端の個室から順々に近づいてきているではないか。
殺されるかもしれない…!!
私は暗殺の可能性を考えた。
トイレのすぐ外には、肩からライフルを下げた軍人がうろうろしているのだ。それについさきほど、軍人のひとりから『歩道を歩け』とホイッスルを鳴らされたばかりだった。
そう、ここは赤の広場、クレムリンのなかにある公衆トイレなのだ。
クレムリンのトイレを詰まらせるなどという国家反逆的な行為を、元KGBのプーチンが許すはずはない。
私はただの痩せたアラサー日本人だが、ことによるとスパイ容疑をかけられる可能性もある。スパイ判定が下ったら…そのときは生きて日本の地を拝めまい。
どうする?
どうすべきだ!?
考えろ!考えるんだ!!
私は日本を背負った者として、わが日本国の汚点を残すようなことをしてはならない。ロシアとの争いは北方領土だけで十分だ。
私を送り出してくれた友人たちの顔が次から次へと浮かんでくる。
「えー?ロシア行くの!?なんか危なくない?」
「ロシアってビザが必要なんだ?ビザが必要な国の方が珍しいよ~」
「殺されそ~!絶対気をつけてね」
うん、わかってる。確かに今、私は命の危機を感じてるけど、大丈夫だよ。
なぜなら私には最後の手段が残されているから――
やるしか、ない。
ビシャッ
私は便器に手をつっこみ、濡れぼそったペーパーのかたまりをわしづかんだ。ありえない事態に脳が拒絶反応を示すが、私ひとりの腕一本くらいくれてやるさ。私は日いづる国よりはるばるやってきたのだ。ここに新たな歴史を刻んでやる。
私はつかんだ水浸しのペーパーを横のゴミ箱に投げ入れた。
そして堂々と水を流した。
それから負傷兵のごとく右腕をかばいながら、ふらふらと手洗い場へ向かった。