アミという名の友のこと
今度開催する『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第三番』の上映会では、上映後に参加者の方とシェア会をすることにした。
導入として、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』という映画をわたしに紹介してくれた友人、河野アミちゃんの話をちょっとだけしようかと思っている。
アミちゃんは、わたしが新卒で就職し配属された雑誌の編集部に、フリーランスの音楽ライターとして所属していた。
モデルのようにすらっとした美人さんで、外見的にはわたしとは真逆のタイプ。ただ、お互い「一言多い」ところがちょっと似ていて、時に辛辣な一言を言い合う、スパイシーな関係(笑)だった。
ことの経緯は忘れたが、わたしが落ち込んでいた2000年前後に、彼女が映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』を紹介してくれた。
わたしはこの作品の持つ包容力のようなものに励まされ、その後、自分が担当していた雑誌で、この作品の監督である龍村仁さんに巻末の連載をしていただいた。
そして10年前に東京を離れ、九州・宮崎で『地球交響曲』シリーズの上映会をしている。
あの頃、彼女が、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』を教えてくれなければ、いま、こんなことをしていないのではないかと思う。
3.11の後のこと。
脱原発の大規模集会があることを知り、いても立ってもいられなくなって、千駄ヶ谷の会場までひとり行った。すると、アミちゃんも現地にいた。他に参加した友人知人はなく、わたし自身、誰かを誘っていくような性格でもなく…。6万人の参加者のなかに見つけた唯一の友人が河野アミだった。
彼女とはソリが合わないとずっと思ってきたけど、大切にしているものが近いのかも、と思うようになった。
震災後、彼女は精力的に被災地や被災された方の取材を続けた。そして、依頼されて書くライターではなく、自ら企画してコトを立ち上げていく編集者にもなっていった。
その後、彼女は家族のいる信州に住まいを移し、SNSに美しい風景や美味しそうな手作りご飯の写真を上げつつ、静かな生活の中から生まれるであろう哲学的思考を、折に触れ投稿していた。
私たちの間には、同じ編集部で顔を合わせていた時には感じえなかった相互承認と理解がほのかに生まれ、育っていったように思う。
2021年の春、彼女は旅立った。
昨日ふと思い立ち、彼女のSNSの投稿を読み返していたのだけど、何年経っても彼女と会話ができるような気がした。
彼女が残した変わらぬ言葉に
変わりゆくわたしが
その時々に反応をする。
彼女の問いかけに
わたしが何かを感じ
心の中でこたえるのだ。
『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第五番』の中で、物理学者のアーヴィン・ラズロー博士は、全ての情報は粒子になっていたるところにあると言っている。
デジタルデータとして刻まれた彼女固有の表現は、確かにそこにあり、これからもなかば永遠に生き続ける。
もしかしたらSNSのアカウントやWebサービス、サーバーが消えて、インターネット上で彼女の残した文章を簡単に見られなくなる時がくるかもしれない。でも、彼女固有の表現はデータとしてどこかに存在し続ける可能性が高い。
Twitter、Instagram、TikTok、YouTube……毎日毎日膨大な量の動画やテキストがデータとして刻まれインターネット上に蓄積されていき、誰もがその表現にアクセスすることができる。デジタル技術が発展したからこそ、今はそれができているのだけど。
振り返れば人類は、固有の表現をなんとかして他者に伝え、残そうとして、これまで進化してきたのだろう。さかのぼればラジオ、電話、写真、印刷、紙、文字、言葉、壁画…とかね。
だから、「あらゆる情報はここにある」というのはけっこう真実を突いているように思う。目の前にモノとして現れてはいなくても、これまでもこれからもずっと、在る。
河野アミ固有の表現は、彼女の肉体が消えた今もインターネット上に在って、ふとした時にわたしを励ましたり微笑ませたりする。
うん。
不思議なもんだが、それは確かなものだ。
彼女の存在がわたしのエネルギーになっているのは間違いない。
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