『地球交響曲 ガイアシンフォニー』 上映会やってみた② きっかけは失業
わたし、流れてどこまで行くの?
映画『地球交響曲 第五番』の試写会で大いに心を揺さぶられた私は、龍村仁監督に、自分が編集長をしていた雑誌でのエッセイ連載を依頼した。
監督には快く引き受けていただいたものの、私自身が人事異動で担当雑誌を離れてしまい、監督と直接の交流はなくなった(連載は2004年から2007年まで続けていただいた)。
その後、私は2人目の子どもを助産師さんの手を借りて自宅出産し、編集の現場からも離れた。そして、2011年の東日本大震災による原発事故をきっかけに、生き方とか政治とか善悪とかで頭の中がいっぱいになってしまい、20年以上勤務した会社を辞め、マンションを売却して関東を離れたのだった。
慣れ親しんできた環境や人間関係を手放して、ゼロからやり直したような感じだが、なかなかゼロ地点には立てなかった。周りが変わっても、私の中身が変わっていないものだから、新しい環境での生活は結構しんどかった。
私は仕事が大好きだったので、仕事でもう一花咲かせたい、みたいなところがあったのだと思う。仕事の内容で満たされ、他者からの承認も得られ、金銭的にも納得がいくような、以前の働き方に近づきたかったのだと思う。
けれど、新しく暮らす場所は総じて所得が低く、あまりの手応えのなさに、時折、虚しくなることがあった。
働くってなんだろう? お金ってなんだろう? 私の価値は時給で示せるものではないのに、私が私を時給でジャッジしている。私の存在意義はどこにあって、それは誰がどうやって決めるんだろう?と、ときどき答えの出ない答えを探しては悶々としていた。
とはいっても、子どもがいるし、彼らが進学するにはお金が必要!と、真面目に一生懸命働いた。
夫がほとんど家にいない中、土日や夜は子どものPTAや部活の役員、地域のお役目等々…のためにも働いた。
多忙で息つく暇もないのに、自分自身は満たされていなかった。とてつもない不足感があった。短期間に何回か転職をしたし、タロット占いで「燃えるものが欲しい」と相談したこともあった。
そんな長期暗黒時代の果てに、息子が高校をやめたり、引きこもりになったりしていくのだが……(話がそれまくりそうなので割愛)。
失業期、到来!
時は飛んで2020年。感染症に世界中が揺れた年に会社勤めを辞めた。社会のメイン・ストリームから降りるすることを選んだ息子を理解したいと思い続けていたら、次第に自分自身も社会の主流には乗れなくなってしまったようだった。
その後はフリーランスになって熱心に働いていたものの、2021年夏、ふと気がつけば仕事が無くなっていた(笑)。
東京を離れて失業保険をもらい職業訓練校に通っていた頃から2度目の失業。しかも今度は失業保険も出ない本気の失業だ。
なのになぜか次の仕事を探す気にならず、失業期間を楽しもうと思った。
そして、無職だから『地球交響曲』上映会をやれるんじゃない? と、思えてきたのだった。
ちょうどその年の6月くらいに『地球交響曲』の新作、第九番が出来上がったことを知っていて、「誰か上映会をやってくれないかなぁ」と思っていたのだが、まさか自分がやるとは、だ。
『地球交響曲』の上映会をやることをSNSで宣言したら、『地球交響曲』を長年見てきたという知人が声をかけてきてくれた。
「今度、第六番に出てる奈良裕之さんがうちに来て演奏会をするんだけど、手伝ってくれない?」と。
そんなこんなで、2001年夏以降、『地球交響曲』上映会ストリームに乗ったまま、これまでとは違う自分の花の咲かせ方を、私は見つけていくのだった。
すき間で人生を知る
龍村監督のエッセイの中で、第一番に登場する元宇宙飛行士のラッセル・シュワイカートが「失業」について語っている。
高校も専門学校もやめて何もしていなかった息子のことを、「無重力状態だね。無重力を漂っていられるのってすごいね!」と言って、2人で笑っていたけど、私こそが無重力になる瞬間(失業)を待っていたのかもしれない。
「人は陣痛と陣痛のすき間で真実を知る」
そして
「人は失業と失業のすき間でも真実を知る」