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【体験談】「2024年を丸ごと振り返る PLANETS大忘年会」に参加してきた
第1章 はじまりの予感
師走の寒空の下、渋谷ヒカリエの中へと足を踏み入れた。
PLANETSと東急株式会社が共同で、 渋谷から新しい文化を発信することをテーマにしている「渋谷セカンドステージ」のイベントに参加するためだ。
イベントは三部構成になっていて、第一部は13時30分から始まるが、参加予定の第二部は16時からの開始である。
スマホで時間を確認すると、15時だ。まだ1時間ある。そこで、コーヒーでも飲みながら時間を潰すことにした。
入口のフロアマップで飲食店・カフェの一覧を確認する。渋谷ヒカリエ ShinQs店は地下1階だ。
ShinQsは、シンクスと呼ぶらしくヒカリエのショッピングエリアを指しているようだ。仕事熱心なビジネスパーソンが色々な案を比較検討して考えた名前だろうが、読みにくい以外に何も感じない。
スターバックスは地下1階の奥まった位置にあり、わかりにくい場所にあった。席数は多くなく、20席ほどだろうか。
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スターバックスには行列ができていて、行列の最後尾に並んだ。
そこには、複数の小さな紙コップをトレイの上に乗せてもつ女性が立っていた。
烏龍茶と紅茶をミックスした飲み物の試飲を勧めてくる。積極的に試したいわけではないが、断る理由もないので一つ受け取る。
おいしい。
外の空気が乾燥していたこともあり、温かい飲み物が心地よく感じる。
レジではドリップコーヒーのショートサイズを注文する。
席にすわり、改めて時間を確認する。15時10分。30分ごろに会場である8階に向かおうかとぼんやり考え、コーヒーを飲み始める。
前の席にはクリスマスパーティーか何かに参加したと考えられる赤や白のドレスを着た子供たちがケーキやドーナツを食べている。
詳しいわけではないが、とても高価そうな服だと感じた。
私の子供も、先週クリスマスパーティーに参加するために赤の洋服をうれしそうに着ていたが、明らかに生地が違う。
付き合うコミュニティによって、ふさわしい服装がことなれば必要になるお金の多寡も変わる。
自分自身、今の生活に大きな不満はないものの、子供のコミュニティが自分の経済力の制限をうけているのかもしれないと少し頭をよぎる。
コーヒーを飲みながら、読みかけの本を読む。
15時30分になったことを確認し、残りのコーヒーを飲み干し、8階に向かった。
エスカレータを登りながら、なぜ、このイベントに参加しようと思ったのか考え始めた。
宇野常寛さんの本が好きで、最新刊である「庭の話」も読んだ。
「遅いインターネット」や「ひとりあそびの教科書」といった過去の著作の流れの延長線上に社会への「庭」の実装を評論した本だ。
リアルの宇野常寛さんに会って何を感じるかを確認したい。このイベントに参加することの価値をこう整理した。
まさか、このイベントが自分自身が抱える深い問題とその解決に向けた方向性に気づくことになるとはこの時は考えていなかった。
第2章 会場に到着
PLANETS大忘年会の第2部から参加した。
会場は、エスカレーターを登ったすぐにあり、すぐにわかった。
受付を済ますと、席は自由とのことだったので最前列に座る。
会場は開放的な空間にあるため、なんだか本当にイベントが始まるのかと感じるくらいゆるい空気が漂っていた。
16時。開始のアナウンスがなされ、登壇者が左手からやってきた。
登壇者は、小川さやかさん、門脇耕三さん、鞍田崇さん、宇野常寛さんの4名だ。
いずれも「庭プロジェクト」のボードメンバーとの説明があった。
イベントはそれぞれが考えるこれからの都市に求められる要件を紙に書き、発表するところから始まった。
トップバッターは、門脇さん。明治大学の教授で、建築家としてだけでなく、建築学者としても活躍していて、建築の構法や歴史、そして社会との関わりについて深く研究している。
紙に書いた言葉は、「遺跡」。
門脇さんがローマを訪れた時のエピソードを披露しつつ、時代が異なる事物が街に共存することの意義についての話だった。
遺跡と言われても、正直ピンとこなかった。あまりに具体的で「遺跡を大切にしよう」というメッセージであればあまりにも凡庸だと感じたためだ。
しかし、その後の4人の対話を通して「遺跡」の意味がわかってくる。
「遺跡」はメタファーだ。この時代の文脈からして、そこに存在することが必然ではないが、存在してしまっているもの、を指すメタファーとして使われている。
そして、この、必然性が「ない」ものが「ある」ことの重要性を以降の登壇者の話の中でも繰り返し認識することになる。
次にキーワードを発表したのは、哲学者の鞍田さん。
キーワードは「奥行き」。
都市が平坦で1面的になっていくことの対比として奥行きのある感覚が大切だという。
奥行きは主観的な体験で、物理的な構造ではない。
あの向こうにあるもの、見えていないところに感じる存在感、そうした生活者の感覚を問題にしている。
門脇さんと遺跡を補助線にして、奥行きを解釈してみると面白い。見えていないもの=違い時代の価値観、生活風土が感じられる装置が遺跡だ。
自分の周辺を理解していない感覚、予期しないことが起こりそうな気配、それが豊かさだと主張しているように感じた。
Google は、「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を指名として掲げる。
これは奥行きを消し去る行為だ。すべて明らかにして可視化し整理すれば、残るのは奥行きのないフラットな社会だ。
歩きやすくて迷わない。一部の人に情報が閉じないフェアな世界。ただ、豊かではない。そう鞍田さんは言っている様に感じる。
三人目は文化人類学者の小川さやかさん。キーワードは「耕す」。
「遺跡」、「奥行き」、「耕す」・・・
ここまで聞いて、気づく。宇野さんを含め4人は都市の話をしているが、その土台には「人としての豊かさとは何か」がテーマ設定されている。
価値観は多様であり、それぞれの人生観の中で豊かさを追求すればよいのだが、その土台に都市があり、その都市をどう実装するかが人の価値観に影響を与えている。
人と都市は、疎な結合として切り離すことはできない。
都市をどう形作って行くべきか、この社会という人の集合体に顕在化している問題はどのような都市機能が影響を与えているのか、を念頭に議論が進んでいるのだ。
そして、小川さんの「耕す」に話を戻したい。
小川さんの話に、最初は戸惑った。「耕す」という深い意味を持つフレーズと、都市に園芸空間を作るという具体例。それらがどうつながるのか、すぐには理解できなかった。 園芸における文字通りの「耕す」なのか、それとも「耕す」という行為の本質を都市に重ねて、だから参加型園芸なのか。頭の中で整理がつかない。
ただ、小川さんの話し方が印象的だった。明るく朗らかに、伸び伸びと言葉を紡いでいく。頭の中にしっかりとしたイメージがあって、それを楽しそうに声にしているのが伝わってきた。 「耕す」の本質が何なのか、自分の頭をフル回転させても追いつかないのに、小川さんはとにかく楽しそうに言葉を重ねていく。
鞍田さんが「カルティベイトと同じ語源の言葉がカルチャーです。都市には文化がある」と補足してくれて、ようやく小川さんが文化の話をしているのだとヒントを得た。それでも、小川さんが伝えたい核心部分は掴めずにいた。
小川さんのパートが終わってからも、「耕す」が頭から離れない。小川さんの真意には最後まで追いつけなかったが、「耕す」は重要なキーワードだと感じていた。
都市の豊かさとはなにか?そもそも豊かさとは何か?という問いがこの第2部の根底にあるテーマだ。 豊かさは、お金の多寡ではない。都市インフラの充実度でもない。共同体の絆の強さや厚みでもない。そうしたものを生み出す母体の強度のことをいうのではないかと考え始める。
農作物の例えで言えば、野菜や米や肉のような収穫物の多さが豊かさではなく、そうした収穫物を安定的に生み出す土壌が豊かさの正体だと考えてみる。 そうすると、小川さんの「耕す」がようやくつながってくる。都市を土壌と見立てた場合、都市(土壌)の強度を高めるアプローチが「耕す」なのではないだろうか。
都市(土壌)を強くする方法の一つとして参加型園芸が位置付けられると仮定して考えを進めてみる。 小川さんの話のなかには「家族以外の人とついでに関わる機会」、「創造性を発揮する機会」と言った表現があった。参加型園芸でこれらの効果が期待でき、収穫物を生み出すことに繋がるのだろう。
「都市にでっかいヘチマを植えてみたい。」宇野さんが本気なのか発想を拡げるための誇張表現なのか、その間なのかわからない発言をする。
ただ、宇野さんの発言で渋谷の街路樹にからみつきながら成長する大きなヘチマの実がイメージされ、フラットだった都市が若干立体的になるのを感じた。
都市が効率を重視することで空虚になるのは、農業で収穫を最大化するために土や痩せていく現象に似ている。
大事なのは、収穫物の量や収穫物を得るために投下したコストではない。土だ。土が健全であることをどう測れるのだろうか、そして、都市に読み替えた場合はどうだろうか。
第3章 これは社会の話ではない自分の話だ
第4章 こころに響くことば
第5章 自分の問題
つまりそれは、自分の問題だった。正確に言えば、自分の問題でもあった。
それは、どうやって世界に貢献してよいのかわからなっくなっているという不安だ。
申し訳なさ、うしろめたさにも似ている。
何かできることがあるはずなのに、していない。
まじめに、良心をもって生きているはずなのに、なにも変化を及ぼしていない感覚だ。むしろ、害悪なのではとさえ思う。
仕事をしてお金をもらうことと、世界が良くなることの距離が遠くなっている。
こんなもんだろうと思いつつ、もっと何かできると感じてる焦りのようなうしろめたさのようなものがある。
実際にやってみる。アウトプットしてみる。
でも、アウトプットしたものが世界にありふれていて、もっと誰かを助けるものが無数にあることに気づく。
無力だ。正確に言えば無力である状態から脱するための努力をきらう自分が醜悪だ。
つまり、自分はインスタントに、簡単に、何の犠牲も払わずに自分に対するぼんやりとした好印象を持って、世界に貢献したいと感じている。
そして、それはそんなに簡単ではないことにすぐに気づく。
この絶望を、認めたくない醜悪さをみないようにして、ごまかしてくれるものを探している。
誰かがくれると思っている。
SNSやYoutubeは多様だ。だから何かあると思わせてくれる。ごまかしてくれるものがあるはずだと思ってしまう。
何か気なるものが見つかってインスタントに消費しても、すぐに飽きてしまう。
持続するのは義憤くらいだ。
そして、この義憤は社会正義にむけたちくせきがあるものではなく、絶望を目眩ししてくれるくらいの効果しかない。
健康的ではないことはわかっている。この義憤の先に絶望の救済がないこともわかっている。
あるのは義憤を追い続ける物乞いのような人生だ。それもわかっている。
それすら、目くらまししてほしい。