【安倍晴明を大河ドラマに】晴明伝奇―シン・安倍晴明一代記
【安倍晴明を大河ドラマに】『晴明伝奇』のあらすじを紹介します。
『晴明伝奇』は安倍晴明と陰陽道の主神泰山府君の娘・碧霞元君の複雑な運命の絡み合いを中心に晴明の生涯を辿る物語です。全50話。
晴明がどのような一生を送ったか分かる史料は少ないので創作は必須ですが、できる限り史実に基づいています。
あらすじ
妖狐の血を引く安倍晴明は、幼い頃に陰陽道の神である泰山府君の娘の白雪と出逢い、仙界に足を踏み入れる。二人はすぐに惹かれ合うが、彼らには元の世界での生活があったので、別れなければならなかった。晴明は白雪との再会を目指して将来有望な陰陽師の賀茂保憲に弟子入りするが、一人前の陰陽師になるにはとても長い時間を必要とした。
やがて晴明は記憶喪失の少女を救出し、彼女を梨花と名付けて世話をし始める。彼女の正体は、自らの仙人の力と引き換えに地獄の災いを鎮めて人間に転生した白雪だが、晴明はそのことに気付いていない。さまざまな紆余曲折を経て晴明と梨花は夫婦の契りを結ぶが、幸せな時間は長くは続かなかった。二人の愛は冥界の神々を怒らせ、残酷な運命によって引き裂かれてしまう。
長い年月を経て晴明はかつての妻と再会を果たすが、彼女は人間であった時の記憶を失っていた。今や碧霞元君という真神になっていた彼女と晴明の間には大きな隔たりがあった。二人は種族や身分の差を乗り越えて、一瞬の出逢いを永遠の愛に変えることができるのだろうか?
『晴明伝奇』の資料は下の記事にまとめています。
参考文献を下の記事に記載しています。
安倍晴明は現在放送中の2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』にも出演していました。
さらに、安倍晴明は大河ドラマの主人公になってほしい歴史上の人物にもランクインしています!
物語の内容
第1話 仙界への誘い
春の霞がかかっていた日に、満月丸(後の安倍晴明)は、住吉の浜辺で大きな亀を助けたことによって仙女の白雪と出逢う。満月丸は都の女とは比べものにならないほどの仙女の美しさに引き込まれ、白雪もまた、妖しい雰囲気を纏った少年に心を奪われる。
少しの間だけでも満月丸と一緒に過ごしたいと思った白雪は、亀を助けてくれた褒美を与えることを口実に竜宮に招待する。満月丸は白雪の仙術によって眠りにつき、目が覚めると竜宮の門の前にいた。
門の向こう側には、想像を絶するほどの魅惑的な世界が広がっていた。満月丸は白雪に手を引かれながら竜宮を案内された。互いに、家族や家人以外の異性の肌に触れるのは初めてのことであった。満月丸は竜宮の中で四季を体験し、玉のようにきらきらと光り輝く世界を目にする。白雪は満月丸に竜宮のほとんどの建物について教えたが、太一殿だけは入ることができなかった。この宮殿は婚儀に使う場所で、陰陽和合を行うからである。
東海竜王に謁見した満月丸は、褒美として鎮宅霊符を賜った。満月丸が助けた亀の正体は玄天上帝という鎮宅霊符の神であった。彼は人間界での修行で魂が疲弊したので、白雪が冥界で大切に預かっていた。霊力が回復したので、彼女が竜宮に運んできたのである。
満月丸は仙界で多くの仙人を目の当たりにする。神仙の世界に興味を持った満月丸は、白雪から陰陽師になることを勧められる。白雪から教えられた陰陽道の神秘的で幻想的な世界に、満月丸は心を躍らさずにはいられなかった。
黄昏時になって、白雪は竜王から満月丸を現世に帰すよう告げられる。次に逢えるのはいつになるかわからないと悲しむ白雪に対して満月丸は、どれほどの時間がかかっても、必ず陰陽師になって再会することを約束した。
現世に戻ってきた満月丸は、父である安倍益材と一緒に帰宅した。満月丸はそれとなく益材に陰陽道の話題を振った。すると、先祖代々に伝わる陰陽道の書である金烏玉兎集を渡された。この書は唐で阿倍仲麻呂の霊に恩を感じた吉備真備によってもたらされたが、陰陽道の家系ではないため、誰も書物の内容を理解できなかった。満月丸は陰陽道を理解したいと思っていたが、大膳大夫である父の後を継がないことに引け目を感じていた。
やがて益材は疫病に罹り、病に臥した。満月丸は益材から思うままに生きるよう願いを託されて、父を看取った。こうして、満月丸は天涯孤独の身となってしまった。
第2話 弟子入り志願
満月丸の父の葬儀を行うために、父に仕えていた陰陽師の賀茂忠行が来た。葬儀の後、満月丸は忠行に弟子入りを志願する。気が進まない忠行の様子を見た満月丸は、弟子にしてくれたら金烏玉兎集を差し出すことを約束して、弟子として受け入れられた。
家に帰る途中で満月丸は百鬼夜行を目撃して、忠行と一緒に身を隠してその場をやり過ごした。ただ者ではないと思った忠行は、満月丸に余す所なく陰陽の道を教えることにした。
満月丸の父の死は、白雪の生活に大きな影響を与えた。冥界では、妖狐が人の姿に化けて人間を誘惑する事件が絶えないとの報告があった。その中には、満月丸の父が妖狐を妻としていたという報せもあった。この問題を解決するために、白雪は世界中から妖狐を集めて自分に仕えさせる計画を立てる。だが、彼女の父である泰山府君はまだ幼い彼女の提案をすぐに受け入れず、真神に昇格したら願いを聞き入れることを約束する。衆生を守るという神仙の重大な役目を果たすために、白雪は満月丸への気持ちを心の奥底に閉じ込めて修行に邁進する。
賀茂家に迎え入れられた満月丸は、忠行の息子保憲に仕えながら陰陽道を学ぶことになった。心優しい保憲は身寄りのない満月丸を憐れみ、本当の弟のように接した。あまり勉強のできない満月丸は、人一倍努力しなければならなかった。こうして、彼が一人前の陰陽師になるまでの長い道のりが始まった。
数ヶ月後、天変や怪異が頻りに起こり、世の中が落ち着かなくなった。宮中に鬼がいたという噂も流れた。陰陽寮がこれらの異変について吉凶を占ったところ、兵革あるいは火災の兆しがあった。
程なくして、大きな雷が清涼殿の柱の上に落ちる事件が起こった。柱から火が燃え広がり、大勢の貴族が命を落とした。陰陽寮の官人たちは急いで清涼殿へ向かい、雷火を鎮めるための祈祷を行った。忠行は藤原忠平の傍らで鳴弦の法を行い、雷から身を守った。雷は鎮まったが、翌日から醍醐天皇は体調を崩してしまう。世間の人々は、天皇に恨みをもつ菅原道真の怨霊による災いだと噂した。加持祈祷が行われたが天皇の病は治らず、寛明親王(後の朱雀天皇)へ譲位が行われた数日後に崩御された。
数年後、満月丸が元服を迎えた。忠行は満月丸を”晴明”と名付けた。どちらの字にも日月が含まれているため、陰陽道を志す満月丸にふさわしい名であった。彼は心の中に白雪を思い浮かべ、立派な陰陽師になると誓った。
第3話 承平・天慶の乱
▶時期:天慶元年(938)― 天慶二年(939)
晴明は賀茂忠行の推薦によって陰陽寮に入ることができたものの、陰陽寮の諸学生は定員に達しており、陰陽家の出身ではない晴明の入る余地はなかった。そこで、晴明はよい機会を待ちながら陰陽寮の事務員として働き始めた。一方、賀茂保憲は暦生になった。
都で大地震が起こった。陰陽寮が吉凶を占った結果、兵革の兆しであった。この頃、東国では平将門、西国では藤原純友が兵乱を起こしていた。その後も天変地異が止むことはなく、世間の人々は将門と純友が結託して都を滅ぼそうとしているのではないかと噂しあった。
この騒ぎを知った白雪は晴明の身を案じるが、大きな使命をもつ彼女は私情を優先してはならないと自分を律した。白雪は兄の炳霊帝君と一緒に、泰山府君から地獄の現状について聞かされる。上古の人々は善行を積んで天寿を全うしたので地獄に落ちることはなかったが、現在の人々は落ちぶれて様々な悪行をはたらくので、地獄で罰を受ける罪人が絶えない。罪人の苦痛は邪気を生み出し、遠い未来に大きな災いになることが予測されている。その時のために、冥界の神々は力を蓄えなければならなかった。
世の中が騒がしい時に、陰陽寮でも暦博士大春日弘範と権暦博士葛木茂経が暦本の作成を巡って議論を繰り広げていた。この議論は、宣命暦と会昌革という二つの暦法の違いによって引き起こされた。陰陽寮は毎年十一月に行う御暦奏を延期することにしたが、そのことを知らなかった朝廷から過失を責められる。晴明は自尊心の高い暦家たちの代わりに始末書を書いた。
やがて将門が関東の諸国を手中に収め新皇を自称すると、朝廷は陰陽寮に将門調伏の儀式を行うよう命じた。将門の人形を式盤の下に敷いて呪詛することになり、保憲も他の陰陽師たちと一緒にこの儀式を行った。陰陽寮の規則で禁じられている呪詛を行うことに晴明は疑問を抱いたが、朝廷の命令なのでやむを得なかった。なお、晴明は正式な陰陽師ではないためこの呪詛には関わらなかった。世間の人々は天地の神々が将門の追討に力を貸してくれることを願い、晴明もまた人々の祈りが白雪に届いているのだろうかと思いを馳せた。
今や大人になった晴明が心の中に思い浮かべる白雪の姿は、出逢ったときの少女の姿のままであった。長い年月を経て現実的になった彼は、これから先の人生のために自分の幸せだけを追い求めるべきではないのだと気付き、白雪への慕情を心の奥に封じた。
第4話 天下安寧
▶時期:天慶三年(940)― 天慶五年(942)
密教に精通している賀茂忠行は、藤原師輔に白衣観音法という兵乱の災いを除くための密教の修法を提案する。だが、密教の高僧たちはこの修法を知らなかったため、師輔は寛静僧正に行わせた。その効果がみられたのか、朝廷が派遣した使者が平将門を討ち取った。翌年には藤原純友も討ち取られ、東西の災いは鎮まった。
暦本を造る時期になり、暦博士大春日弘範はかつて造暦について議論した苦い思い出によって、権暦博士葛木茂経と共同作業することが憚られた。弘範は、暦生の中で最も優秀な生徒である賀茂保憲を朝廷に推薦して造暦宣旨を蒙った。生徒が造暦に携わるのは異例のことであり、ゆくゆくは保憲が陰陽寮の中心的存在になることは間違いなかった。
保憲が造暦に関わってから初めての御暦奏が行われた。この功績によって暦生の中でも特に成績優秀だと正式に認められた彼は、得業生になった。陰陽寮において、得業生になった生徒はいつか博士職に就けることが暗黙の了解になっていた。晴明は、保憲が博士になれば自分も陰陽寮の生徒に登用してもらえると期待した。
この頃の晴明は結婚にふさわしい年齢であったが、雑用係に近い身分の彼を受け入れてくれる女性などいるはずもなかった。晴明は、生徒に昇格することができたら陰陽寮の有力な官人の娘と結婚するという人生設計を立てた。彼の師匠である保憲も将来有望であることに違いなかったが、忠行には娘がいなかったのだ。
年が明けて、地震が頻りに起こった。陰陽寮が吉凶を占ったところ、兵革の兆しであった。朝廷は、前年に日蔵上人から菅原道真の怨霊が都を襲う夢を見たという報せがあったことを思い出した。道真が怨む者はもうこの世を去っているため朝廷は半信半疑であったが、このような異変があったので上人の予言は本当だったのかと思い始めた。世の中は再び騒がしくなり、陰陽寮は天地の動きを注意深く見守った。
冥界では、地獄を取り巻く邪気が溢れかえりそうになっていた。地獄で罰を受ける平将門の怨念が強大な邪気を生み出し、他の罪人たちの苦痛から生じた邪気と混ざり合って激しい炎となった。この火炎を鎮められるのは、水を操ることのできる白雪しかいなかった。冥界の神々や冥府に仕える官人たちを守るために、彼女は万全の準備を整えて迫りくる危機と対峙する。だが、地獄の火炎は想像以上に猛威を振るっており、白雪はすべての力を使い果たさなければ災いを鎮められなかった。
第5話 光り輝く少女
▶時期:天慶五年(942)
白雪の力と地獄の炎がぶつかり合い、激しい爆発が起こった。その反動で、彼女は地獄の深淵に置かれている浮生鏡の向こうに吹き飛ばされた。この鏡は、刑期を終えた罪人が人間界に転生する時の扉として使われていた。こうして、彼女は仙人から人間に生まれ変わった。だが、災いが鎮まった後で地獄の深淵にたどり着いた泰山府君と炳霊帝君は、白雪の姿が見当たらないことから、彼女は自らの命と引き換えに冥界を救ったのだと誤解した。炳霊は白雪は永遠に失われてしまったのだと悲しみに打ちひしがれた。
白雪は仙人であった時の記憶を失い、平安京の北山で倒れていた。ちょうどその頃、晴明は天上から光り輝くものが落下していくのを目撃した。胸騒ぎがして光を追いかけると、倒れている白雪を発見した。だが、成長した彼女を見たことのない晴明は、目の前にいるのがかつて淡い想いを寄せていた仙女だとは気づかなかった。
晴明は白雪を抱きかかえて帰宅し、女房たちに彼女を介抱させた。風変わりな白雪の外見は、賀茂家の人々を驚かせた。数日後に白雪は眠りから覚めたが、これまでの人生はおろか自分の名前すら思い出せなかった。そこで、記憶が戻るまで匿うことになった。晴明は仮の名前として彼女に梨花という名前を与えた。この生活は一時的なものに過ぎないと思っていた彼が、彼女の着ていた真っ白な衣から適当に付けた名前である。
晴明は時々梨花の様子を確かめたが、直接顔を合わせることはなく、御簾越しに彼女と言葉を交わした。彼にとって梨花のような若い女とまともに交流するのは初めてのことで、梨花にとっての晴明もまた、人間界に来て初めて接した男であった。互いの顔がわからないまま、ぎこちないやり取りが続いた。
ある日、いつものように晴明が御簾を隔てて梨花と話していると元気のない様子であった。彼女は慣れない生活に戸惑い、賀茂家の人々からよく思われていないことを知ってとても心細く感じていた。晴明は梨花をこのような状況下に置いたことに責任を感じ、不器用ながらも彼女を励ました。
梨花が賀茂家に匿われて一ヶ月が過ぎたが、彼女の記憶が戻る様子は一向に見られない。梨花をどうすべきか家族会議が開かれ、賀茂家の人々の厄介事に巻き込まれたような反応を見た晴明は、面倒なことを持ち込んだと後悔した。一方、密かに梨花の光り輝く容貌を覗き見た忠行は彼女を娘として受け入れ、立派な姫君に育てることを決意する。
第6話 賀茂の娘
▶天慶五年(942)― 天慶六年(943)
晴明は賀茂忠行から梨花を娘として育てることを告げられた。表面上は、忠行は梨花に普通の娘として幸せになることを願っているように見えた。皆が驚き戸惑うなか、保憲はこの状況を受け入れ、妹として仲良くすることにした。晴明は梨花に姫君が備えるべき一般的な教養を教えるよう頼まれ、面倒なことになってしまったと感じながらも渋々引き受けた。
晴明は御簾越しに梨花へ日記を渡した。また記憶を失ってもこれまでの生活を振り返ることができるようにしたのだ。彼女は暦の吉凶によって多くの行動が制限されることに納得がいかない様子だったので、晴明はこの家で暮らしていくのなら都の風習に従わなければならないと諭した。
晴明と梨花の交流は、これまでと変わらず御簾を隔てて行われた。晴明は梨花に和歌や漢詩を教え、庚申の日は一晩中話し相手になった。彼女から外の景色を見たいと頼まれた晴明は、女房たちの手を借りて自分たちのいない間に外に出した。そうしているうちに、梨花は女房たちと打ち解けていった。
重陽の日に、晴明は梨花から日頃のお礼として菊の酒を渡された。その酒を飲むととても気持ちよくなったので、毎年この季節に飲むことにした。寝る前に晴明は体にちょっとした異変が起こっていることに気付いたが、酔っているせいだと思い直してそのまま眠りについた。翌朝、起床した晴明は体が元通りになっているのを確かめて、思い過ごしだったのだと安堵した。
梨花は自分が何者なのか知りたかったが、かつての記憶を思い出すことはできなかった。彼女は、賀茂家の娘として生きていこうと決意し、皆の役に立ちたいと考えていた。
年が明けて、上巳の祓の季節が訪れた。晴明は梨花に顔を隠すための市女笠を被らせた。梨花にとって初めての外出だったので、晴明は彼女の手を引いて河原に連れて行った。晴明と梨花が出逢ってから一年が経とうとしていた。互いに心を通わせていたが、二人とも奥手でなかなか気持ちを伝えられずにいた。
ちょうどその頃、保憲が暦得業生から陰陽師になることが決まった。陰陽寮において、得業生は博士になる前に陰陽師として実務経験を積むことが定められていた。陰陽師が出世するためには藤原氏に重用されることが一番の近道だったので、忠行は藤原忠平との縁を頼って、彼の息子である藤原師尹に保憲を仕えさせることにした。晴明は保憲が権力者に好かれるよう、誠心誠意支えていくことを誓った。
第7話 雨乞いの儀式
▶時期:天慶六年(943)
賀茂保憲の主人になる藤原師尹は、藤原忠平の息子たちのなかでも特に冷たく厳しい性格だと知られていた。晴明と保憲は気を引き締めて彼に仕えなければならなかった。保憲は師尹から料紙を渡され、翌年の暦本を造るよう命じられた。暦の吉凶を示す日は数え切れないほど多く、晴明はとても覚えきれないと感じる。だが、保憲はこれらの吉凶日をすべて暗記していた。
干ばつの季節になり、保憲は雨を祈るために五龍祭を奉仕することになった。晴明は、いつか陰陽師になったときのために保憲の祈祷を真似てみた。すると、空が晴れているにもかかわらず小雨が降ってきた。雨はすぐに止んでしまったので、晴明にはそれがただの偶然なのか、一瞬でも天に祈りが届いたのかわからなかった。この祈祷は他の陰陽師も行い、僧侶たちも加持祈祷を行ったので、程なくして恵みの雨が降った。
保憲は師尹に完成した暦を渡した。誤りがあったときに訂正するため、晴明と保憲は師尹が暦を確認している間ずっとその場に留まっていた。ほんの少しの誤りもなかったので、安堵した。保憲は控えめな性格で能力をひけらかすようなことはしなかったが、彼の実力は自ずと世間に知られることとなった。
ある日、保憲は働きすぎて体調を崩してしまう。梨花の強い願いで、晴明は彼女と一緒に保憲の病を治すために奔走した。その過程で梨花は医学に興味を持ち、密かに学び始めた。彼女には権力者の愛人になって一族を繁栄させるよりも、保憲の健康を保って仕事を支える方が性に合っていた。晴明は自身の健康について考えた結果、菊の花が最も身体に適しているという結論にたどり着いた。そこで、家中の菊を集めて管理することにした。
偉大な師匠がどれほど名声を得ても、晴明の生活は以前と変わらなかった。普通の弟子であればこの状況に不満を抱いてもおかしくなかったが、陰陽寮の生徒たちと比べてもそれほど勉強ができないことを自覚していた彼は、陰陽師になる素質がなかったのではないかと思い悩みながらも、何とかして保憲に実力を認められようと考えていた。
師尹が立春の方違のために賀茂家に泊まりに来た。賀茂忠行は藤原氏との結びつきを強めるために梨花を利用する計画を用意していた。梨花は本来の願いではない生き方を強いられることになり、晴明への想いは断たなければならないのだろうと感じた。そして、晴明は偶然にも師尹が梨花の部屋に入っていくのを目撃する。
第8話 遥かなる夢
▶時期:天慶六年(943)― 天慶八年(945)
晴明は、自分が未だ越えられずにいた男女の境界線を藤原師尹が簡単に渡っていくのを見て、身分の違いを痛感する。実際のところ、梨花は賀茂家の役に立つことなら何でもしようと覚悟を決めていたが、緊張しきっている梨花を見た師尹は彼女との関係を持つことをやめたのだ。だが、晴明がそのことを知るはずもなく、梨花が誤解を解こうとしても信じる者はいなかった。
正月の子の日に、晴明と梨花は若菜を摘みに北山へ出かけた。その時に医師である丹波康頼と知り合い、医学に興味をもつ梨花と康頼との交流が始まった。
陰陽寮に、新しい天文奏者として明経得業生十市部以忠が入った。彼の父がかつて天文道を学ぶ宣旨を下された縁によるものであった。陰陽寮に所属していない者が外から入ってくるのは、深刻な人材不足が原因であった。晴明は、天文道に詳しくなれば天文生になれると希望を抱くが、天文道と関わりのない保憲をよそに願いを叶えることはできなかった。
それでも晴明は諦めきれず、皆が寝静まった後、天文観測をするために屋根によじ登ろうとした。その時の物音で目が覚めた梨花は、何事かと思って御簾の外へ出た。このような時でも、彼女は扇で顔を隠しながら周囲の様子を伺っていた。ようやく晴明が屋根に上がろうとした時、均衡を崩して落下してしまう。だがその時、体から九つの尾が放たれて晴明を包み込んだ。ちょうど晴明の身に起きた異変を目にした梨花は、思わず手に持っていた扇をうち捨てて駆け寄った。この時、晴明と梨花は初めて互いの顔をはっきりと見た。二人は少しの間見つめ合っていたが、我に返って皆に気づかれないようにその場を離れた。
晴明は、自分の体に妖狐の血が流れていたことを不安に感じて眠れなくなる。彼は幼い頃に失踪した母は妖狐だったのだと思い至った。梨花は驚いたものの晴明の人柄を充分に理解していたので、今さら彼がどのような存在であろうと気にしなかった。晴明もまた、梨花の正体が何であれ彼女への想いは変わらないと思っていた。二人は身を寄せ合って一晩を過ごした。
晴明は、周囲の人々とは違う特別な力が自分に備わっていると気付いたものの、この力の使い道を教えられなかったので、思い通りに使いこなすことができなかった。彼の母が正体を明かさないまま姿を消したのは、晴明に普通の人間として生きていくことを望んでいたのかもしれなかったが、晴明は妖狐の力を自分の武器にすると決めた。
第9話 秘めた想い
▶時期:天慶八年(945)― 天暦元年(947)
二人だけの秘密を共有してから、晴明と梨花の絆はより一層深まった。一度顔を見てしまった以上、二人きりの時は顔を隠す必要はなくなったが、長らく顔を見せないで晴明と接してきた梨花は、いざ顔を露わにして向き合ってみるとどうしたらいいかわからなくなった。梨花が恥ずかしそうに俯きがちになって接してくる様子は、晴明をたまらなく愛おしい気持ちにさせた。
新嘗祭の時期、梨花は藤原忠平から五節の舞姫になることを勧められた。賀茂家の役に立つよい機会だが、大勢の男に顔を晒すため返事を渋っていた。彼女は、初対面の男と逢瀬を交わす都の習わしは自分には不向きであることを自覚していた。梨花は晴明に舞姫を勤めるべきか相談し、心の内では彼が引き止めることを期待していた。晴明もまた、梨花の光り輝く容貌を他の男に知られたくなかったが、本心は伝えずに彼女の意志を尊重することにした。結局のところ、梨花は適当な理由をつけて舞姫を辞退したが、彼女は晴明の曖昧な態度に気が沈んでしまう。
村上天皇の即位に伴い、晴明は大嘗会において安倍氏の当主として吉志舞を奉納した。今や安倍氏の一族は、晴明が子孫を残さない限りは途絶えてしまう運命であった。晴明は結婚適齢期をとうに過ぎていたが、未だ陰陽寮の雑用係のような身分の晴明に嫁ぎたい女などいるはずもなく、まして彼の正体が受け入れられるとも思えなかった。晴明は、陰陽師になるまでの道のりは思い描いていたよりもずっと長かったことを痛感した。
近江国比良天満宮の禰宜の息子が夢の中で菅原道真から神託を授かったことについて、陰陽寮は吉凶を占った。その結果、神託に従い北野天満宮を創建して菅原道真を祀った。道真からのお告げがあったのは日蔵上人以来のことであった。彼が深く恨んでいたであろう人々が死してもなお、世間では相変わらず道真が怨霊と化して都に災いをもたらそうとしているとの迷信が語り継がれていた。
都では疱瘡が流行し、朝廷は僧侶たちに加持祈祷を行わせ、陰陽師たちにも疫病を鎮める儀式を行わせた。だが勢いが収まることはなく、陰陽寮でも多くの犠牲者が出た。晴明は心の内に、欠員の補充として陰陽寮の生徒になれるかもしれないという邪念が芽生えていることに気付いた。彼は自分を戒めた。晴明は特別な血が流れている自分より、周囲の人々のことを案じていた。やがてその懸念は現実となり、梨花が疱瘡に罹ってしまう。
第10話 泰山府君の法
▶時期:天暦元年(947)
疱瘡を患った梨花は隔離され、孤独な日々を送っていた。晴明は、心の内では彼女を看病したいと思っていたが、身勝手な行動で彼の師匠に病が伝染るようなことはあってはならないことだと自分を戒め、遠くから無事を祈っていた。
賀茂忠行は、密教の修法である焔羅王供行法次第には万病を治す力があることを発見する。この修法は病人の家で泰山府君の呪文を唱えれば死籍から病人の名前が削られるもので、泰山府君は陰陽寮でも延命祈願の神として祀られていた。この時、晴明は初めて泰山府君の名を知った。
本来であれば密教僧が行うものだが、晴明は妖狐の霊力を活かして梨花を救えるかもしれないと考え、泰山府君の法を修した。晴明は一心不乱に泰山府君の呪文を唱えた。その様子を陰ながら見ていた保憲は、晴明が梨花に並々ならぬ想いを抱いていることを察する。梨花は病の苦しみから救われたが、顔に疱瘡の跡が残ってしまった。晴明は梨花の様子を確かめようとしたが、彼女は醜い顔を誰にも見せたくなかった。
やがて村上天皇が疱瘡を患い、陰陽寮は疫病を鎮めるために四角祭を修したが、天皇の病は治らなかった。晴明が特別な力を持っていることなど知らない忠行は、泰山府君には疫病を治す力があると確信し、天皇を病から救うために泰山府君の法の実施を勧めた。だが、忠行が勧めたのは密教の修法ではなく、陰陽寮において泰山府君を祀る唯一の祭祀である七献上章祭であった。保憲が名を揚げるにはこれ以上ない機会だったのだ。
保憲が七献上章祭を修したのと同じ日に丹波康頼が参内した。康頼は、梅干しに疫病を治す効果があることを確かめ、天皇に食べさせた。数日後、天皇は病から回復した。保憲と康頼は共に褒美を賜ることになった。疫病で陰陽博士が欠けていたので、保憲が博士に昇格した。
保憲は疫病の影響で陰陽寮の生徒に欠員が生じたことを話し、長らく自分を支えてくれている弟子を生徒に登用してほしいと願い出て認められた。こうして、晴明は晴れて陰陽寮の生徒になった。
梨花は未だ誰にも会いたがらなかったので、晴明は御簾越しに丹波康頼から受け取った薬を置いた。そして、どのような容貌でも梨花であることに変わりはないと言い残してその場を去った。康頼の薬が功を奏し、梨花の顔の傷は以前より薄れた。彼女は晴明の言葉を信じて彼の昇格を祝う宴に顔を出し、彼が陰陽師を志したきっかけは白雪という仙女との出逢いだと知る。
第11話
梨花が晴明の正体に驚いていると、激しい雨が降ってきた。彼女は気を失っている晴明を担いで洞窟に身を隠す。晴明は崖から落ちたにも関わらず無傷で助かったことを不思議に思う。梨花は晴明が自分の正体に気付いていないのだと察する。夜が明けて、晴明と梨花は丹波康頼と合流した。康頼は一晩中二人を捜していた。三人が無事に都に帰ってきたのを見て、賀茂保憲は安堵した。
保憲は藤原忠平の病を治すために鬼気祭を修した。晴明も弟子として保憲を補佐した。その後、梨花が金牙酒を調合し、女房を介して忠平に服用させた。すると、忠平の病はみるみる回復した。何も知らない人々にとっては、あたかも保憲が祭祀を修してから病が癒えたように見えた。
九月、仲平は病によって出家し、まもなく亡くなった。仲平は所労によって久しく朝廷の政に参加できない状態が続き、前月から病状が悪化してひどく苦しんでいた。忠平が藤原氏の戸主となった。
数ヶ月後、忠平が酒が苦くなっていると言い出したので、藤原師尹は源満仲に命じて極秘に調査を行わせた。成分を調べたところ、金牙酒だとわかった。その時、師尹は本当に忠平を救ったのは梨花だったのだとわかった。
天慶九年(946)三月、上巳の祓の時期になって、晴明と保憲は多忙で師尹を迎えにいく余裕がなかった。そこで、梨花が師尹と従者の源満仲を案内した。梨花は師尹から忠平の病が癒えた原因について話を振られ、動揺する。
第12話
梨花は藤原師尹から忠平の病について問われたが、賀茂保憲の祭祀が功を奏したのだと譲らなかったので、それ以上追求されることはなかった。やがて晴明が保憲と一緒に河原に到着したが、晴明は師尹に金牙酒の秘密を知られたのではないかと危惧する。
天慶九年(946)四月、大極殿において村上天皇の即位式が行われた。天皇の即位に伴い、晴明は大嘗会において安倍氏代々に伝わる吉志舞を奉納することになった。この舞は神功皇后が新羅征伐から凱旋した後の大嘗会において安倍氏の祖先が奉納し、以後、代々安倍氏の当主が行ってきたものだが、父益材が急な病で亡くなったために晴明は舞を伝授されておらず、どのように踊ればいいのか分からなかった。その舞は保憲も知らず、忠行も覚えていなかった。朱雀天皇の時は晴明がまだ幼かったゆえに免除されたが、今回は避けて通ることはできなかった。そこで新しく舞を考えることになる。
晴明は丹波康頼から葛の花を陰干しにしたものを勧められた。服用すると良い考えが浮かぶという言い伝えがあった。葛に因縁をもつ晴明は断ろうとしたが、梨花に説得されて渋々服用した。
気が付くと、晴明は森の中に倒れていた。梨花は、晴明が倒れた森から少し離れた神社で目を覚ました。辺りを見回すと、うら若い女が傷だらけで倒れているのを発見した。梨花が女を助けようとすると、向こうから男がやって来た。男には梨花の姿は見えていないようだった。男は女に声をかけましたが返事がないので、彼女を抱き上げて何処かへ去っていった。ちょうどその後に男が去ったのとは反対の方向から晴明が来て、梨花と合流した。
晴明と梨花が信太森を出ると、晴明の家の庭に出た。晴明は彼の両親が仲睦まじく暮らしているのを見た。梨花は、神社で見た男女が晴明の両親だったことを知る。晴明と梨花は、自分たちがいるのは現実の世界ではないことに気づく。まだ幼い晴明が出てきて、両親から満月丸と呼ばれていた。満月丸には虫を食べるという悪食の癖があり、梨花は思わず悲鳴を上げそうになった。それは、晴明にとってはあまり振り返りたくない過去だった。
晴明が幼い頃の幻想が現れては消えて、葛子が満月丸に子守唄を聞かせている光景が見えた。いい夢を見ているのか、満月丸はすやすやと眠っていた。その時、梨花は葛子の後ろの障子に狐の影が映っているのを目にした。梨花は以前崖から落ちたとき、晴明の体から狐の尾が突然放たれたのを思い出した。彼女は晴明の母が狐だったことを知った。葛子は涙を流しながら、母の血筋を受け継いでいるがゆえに虫を喰らうのだろうかと満月丸に語りかける。
彼女がさめざめと泣いていると満月丸が目を覚まして、目に涙を浮かべながら母が悲しむのならばもう虫は食べないと誓った。やがて、葛子が突然姿を消して益材と満月丸はとても悲しんだ。益材は障子に和歌が書きつけてあるのを見つけて、信太社へ急いだ。晴明と梨花が益材を追うと、信太森にたどり着いた。しかし、益材を見失って森の中を彷徨っている間に、二人ははぐれてしまう。梨花は葛子が益材に正体を明かし、天の掟によって二度と逢うことはできないと別れを告げているのを見た。葛子の正体は天帝に仕える仙狐だったのだ。
晴明と梨花は幻想の世界からの脱出を試みるが、戻って来れるのかわからずにいた。気がつくと晴明と梨花は家にいた。二人は迷魂草によって幻を見ていたのです。しかし、音楽と舞は確かに覚えていたので、それを元に吉志舞を考えることにしました。幻想の世界で晴明の過去を追体験したことによって、梨花は晴明が仙狐と人間の間に生まれた子だと確信しました。
十一月、大嘗会が行われた。晴明は吉志舞を奉納した。禄として絹を賜った。昔を思い出したくない晴明は二度と葛の花を服用しないと決めた。
師尹が立春の方違のために保憲の許を訪れた。饗宴の後、晴明は師尹が御簾越しに梨花を垣間見ているのを目にして、彼が梨花に想いを寄せていることを察する。
第13話
晴明は藤原師尹が梨花の部屋に入っていかないように制止して何とかその場を収めた。晴明は師尹に忠平の病気平癒の真相を知られたことに気付いたが、賀茂保憲は依然として重用されていたので静観することにした。
天暦元年(947)三月、近江国比良天満宮の禰宜良種が菅原道真の託宣があったことを奏上した。良種には七歳になる息子がいて、ある日突然息子の様子がおかしくなったかと思うと「私は菅原道真の化身・太政威徳天である。北野の地に松の木を植え、天満大自在天神として祀ってほしい」と告げて、たちまち正気に戻った。そこで、朝廷は道真を祀るための神社を造営することになった。人づてにこの話を聞いた梨花は、人間にとって夢とはそんなに重要なものなのかと尋ねる。晴明は、夢は時に神仏からの大事なお告げであったり、重要な意味を持つことがあるのだと言う。
都で疱瘡が流行り始め、陰陽寮は疫病を鎮めるために建礼門前において鬼気祭を修しました。しかし、その後も疫病の勢いは止まらず、多数の死者が出ました。とうとう、村上天皇も疫病を患ってしまいます。天皇の疫病を治すために諸社奉幣や加持祈祷が行われ、陰陽寮も四角祭を修しますが、一向に効験は見られません。
ある日、梨花が金烏玉兎集をぱらぱらとめくっていると、ふと泰山府君という字が目に入り、あの赤山禅院で祀られている神の名前だと気になった梨花はその頁を読んでみました。そこには、鬼王が疫神である牛頭天王の災いから逃れるために博士の勧めで泰山府君の法を行う様子が描かれていました。晴明も梨花に金烏玉兎集を見せられて牛頭天王縁起を読みました。晴明はこの修法を行えば疫病を解決できるのではないかと思い立ちます。晴明は保憲に泰山府君の法について知らないか尋ねると、七献上章祭という泰山府君を祀る陰陽道の祭祀があるといいます。忠行は『焔羅王供行法次第』という密教の経典でも泰山府君を見たことがあると言って、晴明にその経典を見せました。
そこには病人に対して行う修法について記されており、焔羅王に死籍から名前を削って生籍に移してもらうように乞い、病人の家で泰山府君の呪文を唱えることになっていた。陰陽道と密教の両方で、泰山府君は人間の生死を司る神だと信じられていたようでした。忠行は藤原忠平に頼んで、保憲が天皇のために七献上章祭を行う機会を設けてもらいます。忠平の日記にもかつてこの祭祀が行われていたことが書かれていました。
金烏玉兎集の中で、鬼王は僧侶たちに命じて呪文を唱えさせていたので、百人の僧が召された。鬼王が招請した僧の中に呪文を怠った者がいて牛頭天王に攻め込まれてしまったので、晴明は僧たちに呪文を怠らないように頼む。保憲の七献上章祭が功を奏し、天皇の病は平癒した。疫病から天皇を救った功績によって、保憲は陰陽博士に任じられた。保憲は、自分に七献上章祭を勧めた弟子の晴明にも褒美を与えてほしいと奏上する。そこで、晴明は晴れて陰陽寮の生徒になることができた。
陰陽寮の生徒になったことで保憲は晴明に結婚を勧めるが、晴明はどうにも食指が動かない。彼らの話を聞いていた梨花は、晴明が将来の妻に正体を知られたとき、結果として傷つくことになってしまうのではないかと案じる。そこで、彼女は晴明の結婚に反対した。未だ自分の体に狐の血が流れていることに気づいていない晴明は梨花の意図がわからず困惑する。
第14話
天暦二年(948)正月、老い先短いと悟った藤原忠平は、藤原師尹が生きていくのに困らないように彼を昇進させる。除目によって師尹は兄の藤原師氏を含む五人を飛び越えて昇進した。
賀茂保憲は村上天皇を疫病から救った功績として陰陽博士になった。保憲にとって、暦博士よりも先に陰陽博士に就任したのは予想外だった。保憲は晴明を陰陽寮の有力な官人の娘と結婚させて、後ろ盾のない彼の前途を明るくしようとしていた。晴明の目から見れば保憲も充分有力な官人だったが、謙虚な保憲は自分が陰陽寮で最も期待されていることに気付いていない。
先年の疫病で陰陽寮は人手不足になり、晴明と保憲は多忙を極めた。保憲の競争相手が減るのは晴明にとって好都合だったが、再び過労で倒れてしまうのではないかと彼の身を案じる。晴明は梨花に相談して、保憲が健康を保てるよう薬湯を煎じさせる。
ある日、藤原伊尹が牛車から降りて参内するところへ一羽の鳥が飛んできて、伊尹の頭上に糞を落としました。ちょうど晴明がその光景を見ていたところ、伊尹と目が合ってしまいました。伊尹は慌てて晴明の方へ近づいてきて、不吉な兆しではないかと不安になる。晴明は、兵革の兆しがあるから何者かと争うことになるだろうと答える。晴明は伊尹に助けを求められ、従者によって牛車に乗せられて伊尹の屋敷に向かいます。晴明は伊尹に身固めをして一晩中加持祈祷を行いました。
夜が明けて、戸をはたはたと叩く音がしたので、晴明は戸を開けました。陰陽師の従者を名乗る男は、主人は先日恋人と逢瀬を交わした男を呪詛するように命じられて悩んだ末に呪詛を行いましたが、相手方の陰陽師の護りがあまりに強力だったために呪いが跳ね返って死んでしまいました。従者は呪詛の相手が伊尹だとは知らなかったと詫びて帰って行きました。晴明は、昨日自分が伊尹を見つけていなければ呪い殺されていただろうと話します。伊尹は晴明に感謝してもしきれないと喜びます。帰宅した晴明は、思いがけず呪詛返しをしてしまったことを話します。相手方の陰陽師は死んでしまったということでしたが、陰陽寮に欠員が出た様子は見られません。忠行は、陰陽寮に所属している陰陽師は私的に呪詛を行ってはならないと定められているので、安易に呪詛する者はいないと話します。呪詛したと発覚した陰陽師は、遠国に追放されるのです。それ故に、呪詛したい者がいる貴族たちは、陰陽寮に在籍していない民間の陰陽師に依頼するのだといいます。そのような陰陽師は通称”かくれ陰陽師”と呼ばれていました。中には、法師の身でありながら陰陽師を兼ねる者もいました。
天暦二年(948)三月、右近衛府の曹司に群盗が侵入し、衣装を掠め取る事件が発生しました。これを契機に、京中に群盗が横行するようになりました。しかし、賀茂の家には晴明が竜宮で賜った強力な鎮宅霊符が貼られていたので、群盗の被害に遭うことはありませんでした。五月には、昼間にもかかわらず人家に群盗が押し入る事件がありました。このことは、世間の人々を震撼させました。そこで、晴明は保憲に鎮宅霊符を作って皆に配ることを提案する。
ある日、侍女の一人が師尹が家宝にしていた硯を不注意にも割ってしまいました。たまたまその様子を目撃した梨花は、自分が罪を被るからと言って割れた硯を預かります。自分が家宝を割ったと話せば間違いなく出仕を辞めることになるだろうと考えた彼女は、師尹の許を離れる良い機会だと思ったのです。そうして、梨花は硯を割ってしまったことを師尹に告げますが、彼は硯を割ったのは梨花ではないことを知っていました。実は、侍女が硯を割ったのを源満仲が目撃して事前に知らせていたのです。このことによって、梨花は師尹の勘気を蒙ってしまいます。この日から、梨花は自宅の部屋で寝込むようになってしまいました。家の人々は皆、彼女を心配しました。晴明は梨花から一連のできごとについて事情を知りました。そうしているうちに、梨花は病を患ってしまいました。丹波康頼が家に来て、彼女を診察します。晴明は梨花の苦しい心境を慮りながらも、主人に虚言を述べてしまったことは謝罪したほうがよいと説得します。梨花の病はなかなか治らず、康頼は小一条邸を訪ねて彼女の病状が思わしくないことを報告したら許してくれるのではないかと提案します。
第15話
天暦三年(949)、この頃の梨花は、初めて晴明と出逢った時のあどけない姿からは考えられないほど色めいていた。
三月、藤原師尹は藤原実頼・藤原師輔・藤原師氏とともに法性寺で藤原忠平の七十算を祝った。
六月、陰陽寮は藤原師輔から干ばつが続いていることについて吉凶を占うよう命じられた。朝廷は検非違使に炎旱の祟りを為している神社と山陵を調査させた。さらに、祈雨のために大赦が行われ、伊勢大神宮で祈祷が行われた。七月に入ると干ばつはますますひどくなり、田園が焦げて枯れてしまった。朝廷は百姓たちに神泉苑の水を配り、田に注がせた。陰陽寮もまた、雨を降らせるために五龍祭を修した。晴明と保憲もこれを行った。
七夕の日、祈雨の願いが天に届いたのか、大雨が降ってきた。晴明と保憲は五龍祭の効験があったと喜ぶ。しかし、川が氾濫して水が道路に溢れ、道を往来することができなくなりました。天の川が氾濫してしまったと喩える人もいました。ちょうどその頃、梨花は小一条邸に出仕していました。彼女は家族が心配するからと理由をつけて帰ろうとしますが、師尹は源満仲に梨花が小一条邸に泊まることを伝えるよう命じました。こうして、彼女は初めて小一条邸で一夜を過ごすことになりました。何も知らない保憲は梨花が水害に遭うことはないと安心しました。忠行はせっかくの七夕なのに道が塞がっていては男女が逢瀬を交わせないと冗談めいたことを言いますが、もはや晴明の耳には届いていませんでした。彼には、天の川を渡った織姫が川の氾濫によって帰る術を失ったように思えました。
しかし、心の奥底では、こうして七夕の日に洪水で留まらざるを得なくなったのは天が引き合わせたのかもしれないという思いがありましたが、彼女は本心を認めたくなかったのです。それは師尹も同じ気持ちで、普段は氷のように冷たい彼もこの時ばかりははやる気持ちを抑えられません。
夜も更けようとしていましたが、なかなか師尹は帰ってきません。
諦めかけた梨花が寝床に入ろうとしたとき、師尹が部屋に入ってきました。そうして、二人はやっとお互いの愛を確かめ合ったのです。
梨花が目覚めたときにはすでに夜が明けていて、師尹の姿はありませんでした。昨夜のできごとはすべて夢だったかのように思えましたが。しかし、辺りに衣服が散乱しているのを見て、夢ではなかったのだとわかりました。
洪水も収まっていたので、梨花は満仲に連れられて家に帰ることになりました。人に見つからないように、こっそりと小一条邸を後にしました。晴明は艷やかな梨花の顔色を見て、師尹と何かあったのではないかと訝しみましたが、彼女が何事もなかったかのように振る舞うので聞けませんでした。陰陽寮では大人数で五龍祭を修したことで水害が起こったのではないかと皆が案じていましたが、雨を降らせるために陰陽寮だけではなく諸寺・諸社でも祈祷が行われていて、神泉苑の水を池の外に放つと水の恩恵があるという古くからの言い伝えがあったので朝廷から咎められることはなかった。
八月、藤原忠平が亡くなり、保憲は師尹に命じられて忠平の葬儀の雑事を占い定めた。忠平は法性寺の外の艮の土地に葬られた。忠平の住んでいた小一条邸は、彼の遺言のもと師尹が引き継ぐことになった。
晴明は梨花の月の障りが来ていないことに気付く。心当たりがないか問うたが、彼女は話そうとしない。嫌な予感がした晴明は丹波康頼に脈を診てもらうことを提案するが、拒まれてしまう。
第16話
梨花は、自分の身に何かが起こってしまったのではないかと不安になります。藤原師尹もまた、何ヶ月も退出していない彼女を不審に思っていました。
数日後、腹に痛みを感じた梨花は、やっと月の障りが来たと思って家に帰ります。やがて激しい腹痛が彼女を襲い、ただごとではないと感じた晴明は急いで丹波康頼を呼びに行きます。女房たちが梨花を看病している間に彼女の悲鳴が聞こえてきて、晴明をはじめ賀茂家の人々は皆心配します。このまま息絶えてしまうのではないかと思われる程で、賀茂保憲は急いで師尹に知らせに行きました。主人が穢に触れないように、源満仲が代わりに様子を見に行くことになりました。数時間後、晴明は康頼から梨花の子が流れたことを伝えられて衝撃を受けます。話し合いの末、梨花の心身を慮って彼女には真実を知らせないことになりました。晴明は梨花に、初めて男と契った後は月の障りが遅れて痛みやすいのだと涙を抑えながら説明しました。
天暦四年(950)三月、内裏の進物所で触穢があったので、藤原実頼たちが陣頭において賀茂祭を延期して二度目の申・酉の日に行うことについて議定が開かれました。先例はありませんでしたが、他の祭に倣って二度目の申・酉の日に賀茂祭を行うことを定めました。これらの日に祭を行うことについて、陰陽寮は神祇官とともに吉凶を占いました。賀茂上下の社司に命じて、祭の当日までに不浄の気が出て来ないように祈り申させることになりました。
第17話
天暦四年(950)五月、茂樹が急病を患ったので、晴明と保憲は彼を見舞いに行きます。そこへちょうど、藤原安子が皇子を出産しました。源高明は茂樹を召して出産後の雑事を行う吉日を選ばせようとして従者を差し遣わすが、病に臥せっている茂樹は参上することができません。そこへ、高明と藤原師輔が訪ねてきて、晴明と保憲は茂樹の代わりに吉日を選ぶことになります。事が終わって、晴明たちは禄を下給されました。
皇子を東宮に立てることが決まり、藤原伊尹が師輔の許へ来て、皇子の名を憲平と定めたことを伝えました。
残菊宴において、菊の花の匂いを嗅いだ晴明は突然気分が悪くなった。異変を感じた保憲が駆け寄ると、晴明から狐の耳が生えているのが見えた。
第18話
保憲は晴明を布でくるみ、人目を避けて帰宅した。出迎えた梨花は、晴明の正体が保憲に知られてしまったと動揺する。だが、幼い頃から晴明と行動をともにしてきた保憲は彼の性格をよくわかっており、驚きはしたものの、これまでと変わらず接した。そして、梨花が晴明の結婚に反対し続けた理由をようやく理解した。
この時、晴明は初めて自分が人間と狐の合いの子だと知った。狐は菊の花を好むので、自ずと体が反応したのであった。彼は、正体を知ってもなお自分の側を離れなかった梨花に感じ入る。古来より狐は妖術を使えると言い伝えられていたが、晴明は母から何も教えられていないので、どのように力を生かせばよいのかわからなかった。
十月、保憲は大春日益満とともに藤原実頼によって陣頭に召され、造暦について問われました。算の誤りのため、藤原師尹が算博士を召して同席しました。明年五月の暦について、保憲は宣命暦を元に作成して朔日を丁酉としましたが、益満は会昌革を元に作成して朔日を戊戌としていました。実頼が判断しかねていると師尹が藤原忠平の日記を持ち出してきました。延喜十七年(917)十二月に暦博士葛木宗公と権暦博士大春日弘範が明年正月の日蝕の有無について議論した際、宗公は宣命暦に基づいて日蝕は起こると申し、弘範は会昌革に基づいて日蝕は起こらないと申しました。その時は宗公の意見を採用し、明年の正月に日蝕は起こりました。翌年十二月にも同様の議論がなされ、この時も宗公の意見を採用しました。また、天慶元年(938)に暦博士大春日弘範と権暦博士葛木茂経が造暦について議論したときは、茂経の暦本が採用されました。そこで、宣命暦に基づいた保憲の暦が採用されました。幾度にも渡る造暦の論争に終止符を打つためには唐から新暦を持ち込むことが必要でしたが、その機会はなかなか訪れませんでした。
第19話
天暦五年(951)、三十歳を目前に控えてもなお、晴明は結婚に乗り気ではない。このままでは安倍氏が断絶してしまうことを懸念する保憲に対し、晴明は、自分の正体を受け入れてくれる女でなければ信用できないと話す。保憲は、晴明が梨花との結婚を望んでいることを察する。
七夕の夜、梨花は物憂げに星空を眺めていた。織姫は年に一度の彦星との逢瀬を交わすが、梨花にとっての彦星は訪れそうにない。晴明は彼女に、七夕に白雪との再会を願うのは今年を限りにやめることを伝え、お互いに前に進むべきだと話す。晴明は梨花に淋しい思いをさせないと誓い、結婚を申し込む。梨花も晴明を受け入れられるのは自分しかいないとわかっていたので、彼の告白を受け入れた。
晴明は梨花と結婚した後のことについて話し合った。梨花は、夫は妻以外の女とも関係をもつことができるが、妻も同様なのか尋ねた。晴明は、他の女を愛するつもりはなく、梨花が他の男と交わったらその男を殺してしまうかもしれないと脅かす。梨花は晴明の鋭い目つきに震え上がった。
保憲は小一条邸を訪ね、藤原師尹に梨花が晴明との結婚に伴い出仕を辞めることを伝える。師尹は驚きを隠せない。
十月、後撰和歌集の編纂が始まった。藤原伊尹が和歌所の別当に任じられ、清原元輔らが昭陽舎において編纂を始めた。
二人の結婚を知らない藤原師尹は、保憲の造暦の功績を利用して藤原実頼に加階を進言する。賀茂家の家格を上げて、梨花を妾として迎えようと考えたのだ。
第20話
天暦六年(952)、賀茂保憲が従五位下に叙された。暦博士としては異例のことだったが、保憲の朝廷への多大な貢献を踏まえて叙爵されたのだ。保憲は驚くと同時に、父忠行の位階を越えることを不孝に思い、父に位を譲ってほしいと奏上した。その結果忠行にも叙爵が行われ、彼は思いがけない出世を喜んだ。
もはや陰陽頭と同等の立場になった保憲は、忠行に晴明と梨花の結婚を提案する。幼い頃から師匠を献身的に支えてきた弟子と、その師匠の妹の結婚を祝福しない人はいなかった。
藤原師尹は梨花を妾にすると伝えるために、保憲を呼び出した。しかし、彼が話を切り出す前に保憲が梨花と晴明の結婚を報告した。これを機に彼女との関係を絶つことを請われて、師尹は無情を貫くしかなかった。
梨花は師尹に晴明と結婚することを伝えた。師尹は彼女の未練を断ち切るために敢えて結婚を祝福し、冷たく突き放す。梨花は、師尹にとって自分は一時の遊びに過ぎなかったのだと絶望し、二人の情は完全に絶たれた。
晴明と梨花は祝言を上げて、結婚生活が始まった。とはいえ、晴明は未だ一介の生徒でしかないので、このまま賀茂の家に留まることになった。
第21話
天暦七年(953)、梨花が懐妊した。晴明は彼女が再び流産しないように、丹波康頼の助言の下でありとあらゆる安産祈願を行った。彼は世継ぎを求めていたので、男子が生まれるための様々な方法を試した。保憲が生まれてくる子を案じているところへ忠行が来て、晴明は普通の人間とは異なるが善良な子だから何も心配はいらないと元気づけた。保憲は忠行が晴明の正体を知っていたことに驚く。忠行は、弟子入り試験の時に晴明の異変に気付いていたのだ。
僧日延が呉越に留学することが決まりました。保憲は新しい暦を日本に持ち込む機会が到来したと考えます。彼は、諸道の博士はみな不朽の書物によって技術を磨いているけれども、暦道においては貞観元年(859)に宣命暦が日本に伝来してから百年近い時が流れていること、その間に大唐では暦が改められているにもかかわらず、その暦を日本に持ち運んでくる人がいなかったので、新暦が伝わってきていないことを奏上しました。村上天皇は保憲の願いを聞き入れ、日延に新暦を日本に持ち帰ってくるように命じました。そうして、日延は呉越に渡りました。
天暦八年(954)、梨花が男子を出産した。母子ともに無事だったので、晴明は大いに安堵する。梨花は初めて子ができたことを喜んだ。妊娠中も晴明はただひたすらに安産を願い、他の女に目もくれなかったので、彼女は晴明の深い愛情を感じた。梨花は初めて晴明と出逢ってから今までのことを回想し、世継ぎを産んだことでようやく彼に恩返しができたと感じた。二人は再び愛し合い、まもなくして梨花は二度目の懐妊を迎えた。
第22話
二度目の出産は、梨花にとって難産だった。晴明が見守る中、彼女は生死の境を彷徨っていた。庚申の日だったので、意識を失った梨花の体から三尸の虫が飛び出した。
冥界にいる泰山府君の許に、天界の司命星君から人間界に白雪によく似た娘がいるとの報せが届いた。泰山府君と炳霊帝君は、白雪が梨花という名前で人間として暮らしていることを知って驚く。三尸の虫から司命へ、梨花の行状が報告されたことによって彼女の存在が発覚したのだ。だが、人間の行状を見ることができるのは司命ただ一人なので、梨花がどのような人生を送ってきたのか知ることはできなかった。
彼らが梨花の様子を確かめたところ、彼女は今まさに出産の苦しみで息絶えそうになっていた。居ても立っても居られない炳霊は人間界に降り立ち、梨花の居場所を突き止めた。晴明は、神秘的な風貌の男が突然現れたことに驚きを隠せなかった。炳霊は梨花の体に仙力を注ぎ込み、彼女は無事に二人目の男子を出産した。
晴明は炳霊を引き留めようとしたが、彼は梨花の安産を見届けた後すぐに冥界に帰った。泰山府君と炳霊は、梨花が人間としての生を終えるまで彼女を遠くから見守ることにした。
第23話
天徳二年(958)、梨花の出産から三年の月日が流れた。賀茂保憲は息子光栄を暦生として陰陽寮に入れた。晴明は、保憲は光栄に暦道を継がせる気だと察した。世継ぎが生まれたことで、晴明はいつか賀茂家から独立したいと考え始めていたが、博士はおろか得業生にもなっていない彼にとっては夢のまた夢だった。
源満仲のもとに男子(後の源頼光)が生まれた。幼名を文殊丸といって、近所に住んでいたので一緒によく遊んでいた。
日延が符天暦を持って帰朝しました。日延は呉越の司天台で暦本を学んできました。この暦は唐の時代に曹士蔿が編纂した暦法です。今まで日本に伝来した暦は唐土の王朝で定められた官暦でしたが、符天暦は民間で作成された暦でした。官暦としては採用されなかったものの占星術に使用され、広く流行しました。それまでの暦法では暦の計算起点を数万年前に置いていましたが、符天暦は顕慶五年(660)に起点を置いていました。さらに、宣命暦では一日を八千四百分を数えていたのに対して、一日を一万分としていました。日延によると、唐の時代に安禄山が反乱を起こしてから私的に暦が作られるようになったということでした。
この暦には、日・月・五星のほかに羅睺・計都という特殊な星が存在します。保憲は符天暦の使用について村上天皇に奏上しましたが、天皇は官暦ではないことを理由に符天暦を用いた暦の作成を見送ったため、保憲は当面の間は宣命暦によって暦を作成し、確認用の暦として符天暦を用いることを定めました。
天徳二年(958)十月、藤原安子が中宮に冊立され、藤原芳子が女御になりました。
出産の時期が近づいた藤原安子は小一条邸に移りました。賀茂保憲は陰陽頭として出産後の雑事を行う吉日を選びます。そして、安子は皇子(後の円融天皇)を出産しました。皇子は守平と名付けられ、親王宣旨を下されました。
天徳三年(959)、保憲はさらなる暦道の研鑽のためには天体について深く知る必要があると考え、独自に天文道を学び始める。そんな時、白虹が太陽を貫く天変が起こり、世間の人々は大きな災いが起こる兆しだと騒ぎあった。冥界では、泰山府君と炳霊帝君が白面金毛復活の気配を感じ取る。もはや、梨花の人生を静観していられる状況ではなくなってしまった。
第24話
天徳四年(960)正月、叙位が行われて藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家が加階されます。兄弟三人が同時に加階された例は今までにないことでした。藤原師輔は栄華の極みだと感嘆しました。
四月、賀茂保憲は天文博士になった。彼は暦道・陰陽道・天文道の博士を経験したことから、三道の博士と評された。保憲は賀茂氏を暦家として栄えさせることに決め、弟子として長く仕えてきた晴明に一つの道を譲ろうと考えていた。晴明は保憲の推薦で天文得業生になった。晴明と梨花は長い時を経てようやく道が開けたと喜んだ。
ところが、この時期から天変が頻りに起こるようになり、疫病が流行り始めた。疫病によって多数の死者が出て、藤原師輔も病に倒れて亡くなった。保憲は、師輔葬送の雑事を行う吉日を選んだ。
生前、師輔は伊尹に自分の葬儀は簡素に行うように遺言を書いていたが、伊尹は遺言に従わず通例通り葬儀を行った。疫病の猛威はこれだけに留まらず、とうとう賀茂忠行も病に臥して亡くなった。その後もひどい干ばつに見舞われ、宮中では穢に触れることが多かった。晴明は大きな災いが起こるのではないかと懸念する。
白面金毛の魂の残滓が集まり始め、平安京に災いを及ぼそうとしていた。炳霊帝君は冥界の司命から死籍を渡される。この名簿には、少し先の未来で死ぬ人間の名前が記されている。死籍を読んだ炳霊は、数ヶ月後に平安京で大きな火災が起こり、梨花とその家族が命を落とすことを知る。
火災を鎮めるためには梨花が白雪として覚醒することが必要だった。天界の霓裳羽衣を梨花に着せれば神仙の力を取り戻せるが、その代わりに人間界で起こったことをすべて忘れてしまう。炳霊は悩んだ末に再び人間界に降り立ち、梨花の前に姿を見せる。炳霊を見た梨花は、幾度か夢に現れた神仙だと気付いた。彼女は炳霊から数ヶ月後に都に訪れる運命を告げられる。
第25話
梨花は炳霊帝君の話を簡単に信じることはできなかったが、もし本当に災いが起こったら力を貸すことを約束する。そして、その時が訪れたときのために晴明への手紙を書き残した。梨花が晴明に出逢った証として、最初に付けていた簪を同封した。手紙には、その簪を持って自分を尋ねるよう書いた。神仙が人間と触れ合うことは不可能だが、純粋な人間ではない晴明なら奇跡が起こるかもしれないと希望を託した。
梨花は晴明の母親と同じ運命を辿ることになってしまうかもしれない我が身を嘆いた。晴明は、物憂げな様子の彼女を見てよからぬことが起こるのではないかと不安を覚える。
天徳四年(960)九月二十三日、殿上では庚申御遊が催されました。賀茂保憲も参上していました。
亥三刻、宣陽門内の北腋陣から出火があり、外へ燃え広がりました。侍臣たちが悲鳴を上げながら走ってくるのが見えました。藤原兼家が奏上して言うには、左兵衛陣門が燃えており、未だ消火できていない状況でした。村上天皇は内侍所に納められている大刀契を取ってくるように命じますが、温明殿には炎が燃え渡っていて持ち出すことができません。火はすでに燃え盛っていたので、人々はみな紫宸殿の庭に脱出しました。
憲平親王は侍臣に抱きかかえられて脱出し、消火のために藤原師氏と藤原師尹が参入しました。師尹は輿を準備させ、天皇を太政官朝所へ避難させようとします。そこへ保憲が急いで走ってきて、太政官は天皇の御忌方であり、太白神の在る方位だと報告したので、天皇は職御曹司に移ることになりました。晴明は内裏の方角が燃え盛っているのを見て、保憲のことが心配になって急いで宮中へ向かいます。皆が慌てて逃げ惑うなか、多くの宝物が焼けてなくなりました。
三種の神器のうち、神璽と宝剣は天皇が自ら手に持って脱出しましたが、神鏡だけは取り出せず宮中に残されたままでした。藤原実頼は急いで温明殿に向かいましたが、すでに焼亡していました。仁寿殿の棟木も半分焼け落ちていました。燃え盛る炎の中、実頼は神鏡を探し回ったが見つかりません。やがて、灰燼の中から神鏡が飛び出し、ふらふらと浮かび上がって桜の木の枝に掛かりました。神鏡は凄まじい光を放っていました。その光は都全体を照らし、夜であるはずなのに昼かと思える程でした。梨花は、この光は魔尊の力によるものだと察し、急いで光が強く輝いている方へ向かいます。
炳霊に霓裳羽衣を着せられた梨花は白雪として覚醒し、神仙の力を取り戻した。だが、それは梨花として生きた記憶をすべて失ってしまうことを意味していた。
白雪は滄溟傘を手にして大雨を降らせ、炎を鎮めた。その場にいた人々はみな女神が現れたと驚いた。その時、晴明は梨花の正体が神仙だったとわかった。役目を果たした白雪は晴明を認識することなく、天に帰っていった。
第26話
天徳四年(960)九月、内裏焼亡の翌朝、朝廷の貴族たちは神鏡をはじめとした宝物を灰燼の中で探し回りました。藤原実頼は温明殿の瓦の上で神鏡を発見しました。神鏡はほとんど無傷でした。しかし、宣耀殿の宝物や仁寿殿の太一式盤はみな尽く灰燼となっていました。朝廷は内裏修復の作業に取りかかります。
火災があってから世の中は落ち着かなくなり、いろいろな噂が飛び交いました。中には、平将門の息子が入京したという流言までありました。藤原師尹は源満仲らに命じて京中を捜索させます。
梨花の死穢によって晴明は物忌に籠もらなければなりませんでした。晴明の家では、子供たちが梨花の不在を不思議がって悲しんでいました。晴明は、結局のところ自分だけではなく子供たちも母親がいない中で育っていかなければならなくなったことを嘆き悲しみます。それからしばらくは梨花との思い出に浸っていましたが、彼女との約束を思い出して一家を繁栄させることを誓います。
十月、内裏焼亡により、村上天皇が職御曹司から冷泉院へ遷御することについて、職御曹司から冷泉院は大将軍の方角に当たりますので、四十五日に満たないうちに冷泉院へ遷御してもよいか議論がなされました。秦具瞻と文道光は忌むべきだと申しました。賀茂保憲は、一方分法によって方角を測ると、冷泉院は巽の方角に当たり、今年の大将軍は午の方角に在るので忌む必要はないと申しました。結局、保憲の説が採用されて遷御が行われることになりました。本来であれば陰陽頭の具瞻の意見の方が重んじられるところですが、保憲が三道を究めた陰陽道の第一人者であるがゆえにこのようになりました。また、冷泉院は古くから在る邸宅ゆえに新宅の儀は必要ないのではないかと問われました。しかし、保憲は古い邸宅であっても犯土・造作があるのだから、新宅の儀を欠いてはならないと答えます。また、保憲が遷御の際に反閇を奉仕することになりました。十一月、天皇は冷泉院へ遷御されました。
触穢の期間を過ぎても晴明は陰陽寮に来なかったので、保憲は心配しました。しかし、少し遅れて晴明が来たので、安堵しました。
内裏の火災によって温明殿にあった四十四柄の剣が焼損した状態で発見されました。その中で、護身剣と破敵剣という二本の剣は特に重要な霊剣とみなされていました。内裏焼亡の際に梨花が災いを鎮めたのを、多くの貴族たちが目撃していました。実頼は、保憲であれば何か手がかりが掴めるかもしれないと考え、保憲にに霊剣の文様を修復するよう命じます。晴明も弟子として保憲の修復を手伝うことになりました。二本の剣は日・月・四神などの文様が刻まれていましたが、火災によって焼けて見えなくなっていました。しかし、火災が起こる前に霊剣を見たことのない晴明と保憲には文様がどのようであったかわかりません。晴明が不注意にも霊剣に触れると、霊剣からきらきらとした星のような霊気が立ち込めました。晴明には、亡き妻の霊魂が未だ現世に留まっているように感じられました。実際に、それは梨花の魂の残滓でした。霊気が剣の上から下まで辿っていくと、文様が明らかになりました。実頼からどうやって霊剣の文様がわかったのだと驚かれると、晴明は式神のおかげだと答えました。
十二月、晴明が宜陽殿の作物所で鍛冶師に霊剣の鋳造を始めさせました。
冥界に戻った白雪は、人間界での劫を経験したことで真神に昇格していた。だが、彼女は霓裳羽衣を取り込んだことで人間だったときの記憶がない。白雪は簪がないことに気付いたが、その在処を知っている者は誰もいなかった。
天徳五年(961)二月、保憲が参内して改元が必要だと奏上します。今年は辛酉革命という王朝に災難が降りかかる年に当たり、現在の元号である天徳は陰陽道において火神の名前であるためです。そこで、天徳から応和に改元が行われました。
内裏の復旧作業中に新造した柱に虫喰いが発見されました。その虫喰いは三十一の和歌の体をなしており「造るとも またも焼けなむ 菅原や 棟の板間の 合はぬかぎりは」というふうに読めました。朝廷は「何度造り直してもまた焼けてしまうだろう、菅原道真の胸の痛みが癒えぬ限りは」という意味だと解釈して大騒ぎになりました。
六月、高雄山の神護寺において霊剣を再鋳造するための儀式が行われました。保憲が祭文を読み、晴明が進行役を務めました。
第27話
真神に昇格した白雪は、泰山府君から天仙聖母碧霞元君の称号を賜る。
応和四年(964)、梨花が晴明の前から姿を消して四年が経過しました。夢の中でさえ、晴明は梨花に逢うことはかないませんでした。晴明が家の庭に植えた梨の木が花をつけていました。
この数年の間に、陰陽道第一人者に等しい保憲の弟子だということで、晴明のもとに何人かの陰陽寮の官人たちから縁談の話が舞い込みます。しかし、心に決めた妻は梨花一人だけである晴明はそれらの縁談をすべて断っていました。
本来であれば子育ては女房が中心となって行うものでしたが、晴明は亡き母の分の愛情も注いでやろうとして、時間のある時は率先して育児に関わりました。
幼い晴明が母を失ったとき、父がそうしてくれたからです。
藤原安子が皇女(選子)を出産して崩御されました。村上天皇の嘆きは甚だしいものでした。
賀茂保憲は来たる応和四年の甲子革令について奏上しました。この年は甲子の年に当たり、陰陽道において変革が起こりやすいと考えられていました。藤原実頼の屋敷で改元についての議論がなされ、保憲は災いを鎮めて徳を施すために改元が必要だと訴えます。そこで、応和から康保へ改元が行われました。さらに、甲子の年は海若祭を行うことが定められていたので、保憲は祭祀を行うために摂津国難波浦まで行かなければなりませんでした。晴明も同行しました。晴明は幼い頃に摂津国で仙女に出逢い竜宮を訪れたことを話しますが、保憲にはおとぎ話のように思えて信じられません。
晴明と保憲は難波浦に到着したものの、雨が降っていて祭祀を行うことができませんでした。晴明たちは摂津国にある草香の里という小さな村に案内されます。その日の晩、里の長老がこの村に残る伝説について語り始めます。昔、この里に住んでいたある男の妻は家が没落したため夫の許を離れて京へ上り、貴族の家に乳母として仕えるようになりました。生活が安定してきたので妻は夫を訪ねようと里帰りするが、夫は行方知れずになっていました。それでも妻は夫に会うことを諦めず、ついに夫と再会を果たし、春の都へ帰って行ったのでした。
晴明と保憲は梨花の簪の力を使って竜宮を訪れた。東海竜王は晴明との再会を喜んだ。晴明は、傘を武器にして水を操る神仙を知らないか尋ねたが、竜宮にそのような者はいなかった。晴明が梨花からの手紙を竜王に見せると、冥界の司命と深い関わりがあるのではないかという。
碧霞は忘川の守衛から久しく川を彷徨っている魂魄についての報告を受け、忘川に向かいます。その魂魄は生まれる前に亡くなった娘のものだったのですが、同じ境遇の子供たちとは異なり、長い間川を渡れずにいました。魂魄が忘川を漂い始めてから十五年が経過したと聞いて、碧霞は驚きます。近頃は魂魄が薄れてきて、このままでは忘川の中に散ってしまう状況でした。哀れに思った碧霞は長い間魂魄を放置していた守衛を叱り、魂魄を引き寄せます。
第28話
碧霞元君は魂魄を引き寄せ、仙術によって少女の姿に変えました。碧霞は侍女に少女を介抱させ、彼女が目覚めるのを待ちました。少女の両親は天地の吉凶を無視して交わったので、この世に生を受けることができませんでした。久しく忘川を彷徨っていた彼女はひどく衰弱していました。碧霞は真神の力を注ぎ込んで何とか存在を維持しようとします。
康保三年(966)、正月から頻りに天変が起こっていました。晴明と賀茂保憲は天文密奏で忙しくなります。朝廷は天変を鎮めるために、寛静に火天供を修させました。晴明は、天徳四年の内裏焼亡から数年に渡って世の中が落ち着かないことを憂えます。
閏八月、都では大雨で洪水になりました。雨を止めるための諸社奉幣と祈祷が行われました。藤原師尹は勅命を受けて左右両京で水害があった場所を巡検しました。彼は梨花と契った夜のことを思い出し、子が流れてしまったのも道理であったのだと悔やみました。
碧霞たちが見守るなか、少女は意識を取り戻しました。少女は親に会うことなく亡くなったので、名前がありませんでした。碧霞は、忘川を漂う少女の魂魄は蛍のようだったことを思い出します。さらに仙人だった頃の名前から一字を取って、少女を蛍雪と名付けました。碧霞は泰山府君に事情を説明し、蛍雪を冥官見習いとして採用してもらいました。彼女が実の親を裁いてしまわないように、百年間は修行に専念して裁判に携わらないことになりました。
蛍雪の両親のことは分かりませんでしたが、彼女が死んだ場所が日本の平安京だということがわかりました。碧霞は泰山府君に暇を請うて、蛍雪を連れて平安京に行くことにしました。碧霞が仙術で移動しようとすると、泰山府君に止められます。蛍雪は人間なので、神仙の碧霞のように瞬間移動ができないのです。碧霞と蛍雪は泰山府君から教えてもらった通路を辿って、平安京の六道珍皇寺の井戸から地上に出ました。かつて冥官として働いていた小野篁が、この井戸を使って地上と冥界を行き来していたのです。
都を遊覧している間に碧霞は満月丸を思い出し、彼は陰陽師になれたのだろうかと思いを馳せます。しかし、満月丸は幼名であったため、探し出すのは至難の業でした。
六道珍皇寺の井戸は長らく使われていないせいで悪臭が立ち込めており、碧霞と蛍雪は登るのに苦労しました。碧霞は平安京の鬼門にある一条戻橋に目をつけ、この橋と忘川の奈何橋を繋ぎました。ただし、普通の人間が誤って冥界に足を踏み入れることがないように、神仙の血が流れている者にしか冥界の入口を発見できないように術を施しました。そうして、二人は冥界に帰りました。
憲平親王は天徳四年の内裏焼亡においてまばゆい光を放ったという神鏡に興味を持ちます。神鏡の周りには邪気が漂っており、不思議に思った憲平親王が鏡に触れようとしたところ、邪気に襲われてその場に倒れ込んでしまいます。憲平親王の不在によって宮中が騒ぎになり、偶然にも藤原兼家が親王を発見して救出しました。その日から、憲平親王は病にうなされるようになってしまいます。
康保四年(967)二月、憲平親王が病を患って四ヶ月が経過した。藤原師尹は僧たちに加持祈祷を行わせるが、親王の病は一向に快復しない。憲平親王が神鏡の邪気に触れて重く患ってしまった。晴明は憲平の体に邪気がまとわりついているのを目にした。彼以外の者には見えていなかった。やがて憲平の病は平癒したが、まもなく村上天皇が崩御された。
第29話
康保四年(967)、晴明の二人の子供が元服を迎えました。晴明は、兄を吉平、弟を吉昌と名付けました。晴明は二人を陰陽寮に入れることにしましたが、暦生にはすでに保憲の息子光栄がいるため、出世は見込めそうにないと考えます。そこで、晴明は保憲と子供たちをどの部門に入れるか話し合いました。この時の保憲は天文博士でしたが、これまで弟子として自分を支えてきた晴明に譲るつもりでいた。晴明は二人の適性を見て、吉平を陰陽生に、吉昌を天文生にすることにしました。
碧霞元君は炳霊帝君に蛍雪を冥官の見習いとして修行させたいと頼んだ。炳霊は蛍雪が碧霞と同じ性質を持っていることを不思議に思ったが、碧霞は蛍雪の魂魄を補う際に力を注ぎ込んだせいだと思っていた。
六月、藤原兼家が藤原兼通の後任として蔵人頭に任じられます。晴明は藤原実頼に命じられて政始の吉日を撰び、冷泉天皇の御代が始まりました。実頼は関白に任じられたものの天皇との血縁をもたないため、実質的な政治の実権は藤原伊尹や兼家が握っていました。
病から復活したものの、天皇は度々狂気的な行動に出ることがあり、人々は狂気の病に冒されているのではないかとささやきあいました。晴明は、強引に天皇の寿命を延ばしたせいで天皇がおかしくなってしまったのではないかと後悔しますが、保憲は邪気によるものではないかと推測します。
七月、藤原師氏が実頼の許を訪れて、除目が行われることを伝えます。実頼は、天皇が狂乱の病に犯されている中でも公事を行うことを嘆きます。昔から武猛・暴悪の王はいましたが、狂乱の君主は前代未聞でした。実頼は、このような状況下でも競って昇進を望む伊尹らを外戚不善の輩であると強く非難し、関白である自分の存在を無視して政治を主導する伊尹と兼家に対して名ばかりの関白だと嘆きます。
それからまもなくして、先帝(村上天皇)の女御藤原芳子が卒去しました。
その後、為平親王と守平親王のどちらを東宮に立てるか議論がなされたが、為平親王の后は源高明の娘だったので、高明が実権を握ることを恐れた伊尹と兼家は守平親王を東宮に立てます。春宮大夫には師氏、皇太弟傳には藤原師尹が任じられます。数日後には、伊尹の娘藤原懐子が天皇の女御となりました。程なくして天変が相次ぎました。晴明は、これらの天変はみな凶兆だと危ぶみます。即位式のとき、天皇の病を考慮して、実頼の判断で即位式は大極殿ではなく紫宸殿において行われました。その後、叙位によって兼家は兄兼通の官位を追い越し、人々は兼家は兼通よりも先に大臣になるのではないかと噂しました。
晴明は小野篁が六道珍皇寺の井戸から地上と冥界を行き来していたという噂を聞いて実際に下ってみたが、行き止まりになっていた。彼の狐の神通力を持ってしてもどうにもできなかった。晴明は狐の血をまったく生かせていないことをもどかしく感じていた。
安和元年(968)、懐子が出産のため里下がりしました。その隙を見計らうかのように、兼家は娘藤原超子を入内させます。さらに、十二月には超子が女御になりました。公卿ではない貴族の娘が女御になったのは初めてのことでした。
第30話
安和二年(969)正月、藤原実頼の屋敷に人々が集まって宴が開かれ、先帝(村上天皇)を偲んで涙しました。
二月、藤原師尹と藤原兼家の家人が闘乱し、師尹の数百人に及ぶ家人が屋敷を打ち壊す事件が起こりました。
藤原兼通は正月の除目で参議になったものの、中納言と蔵人頭を兼任している兼家との差は依然として開いていました。世間の評判を不快に感じた兼通は、この頃から出仕を怠るようになります。
三月、源高明が、為平親王が立太子されなかったことを恨んで朝廷を転覆させようと企んでいるという噂が流れ始めます。その後、源満仲らが高明の謀反を密告し、高明は太宰外帥に左遷されました。師尹が左大臣に、藤原在衡が右大臣に任じられました。宮中で人々が驚き騒ぐ様子は、さながら承平・天慶の大乱のときのようでした。翌日、高明は出家して、彼の息子も出家した。満仲は謀反密告の褒賞として正五位下に叙されました。四月には高明の西宮殿が焼失しました。何者かが屋敷に火を付けたのではないかという噂も流れました。
一連の騒動で最も昇進したのは左大臣になった師尹であったことから、世間の人々は安和の変の首謀者は師尹ではないかと噂した。
冷泉天皇は狂気の病ゆえに譲位を行い、守平親王が円融天皇として即位した。師尹は重く患い、晴明と保憲は病気平癒の祈祷を行った。しかし、恐らくもう長くはなかった。保憲は長い間世話になったと感謝を伝えた。
人々は、高明の怨霊による祟りだと噂しました。それを聞いた晴明は、高明はまだ生きていると非難します。
小一条邸の鶴の鳴き声を耳にした実頼は、主人に先立たれて哭くならばどうして長寿を譲らなかったのだと嘆きます。
碧霞元君の許に蛍雪がやって来て、ある死者の生前の行いを調べていたときに碧霞そっくりの女を見たと報告してきた。梨花のことだと察した碧霞は、不本意ながらも浄玻璃鏡を手に取った。碧霞は、不義の間柄でありながらも彼が梨花を深く愛していたこと、彼女を傷つけて後悔していたことを知る。蛍雪から処遇について問われた碧霞は、生前十分に苦しんだのだから、罰を与える必要はないと伝えた。
第31話
十二月、賀茂保憲は主計頭に任じられます。これが、陰陽寮出身者が他の寮の官職を兼任するようになった最初の例になりました。陰陽寮の官人の中で暦道や天文道に携わる者は計算に長じているためです。
天禄元年(970)五月、藤原実頼が亡くなり、世間の人々は彼の死を悼みました。
七月、藤原師氏が病に倒れました。師氏は自分の人生を振り返り、善行を積んでこなかったことを後悔していました。だが、今更後悔しても仕方ないと思い直して、師氏は自身の名前を書いた紙を空也上人に渡して「多忙ゆえに善行を修することができずにいたところへ、こうして病を患ってしまいました。今はただ、あの世に行くのを待つばかりです。地獄で報いを受けるのを逃れる術もありません。どうかお助けください」と懇願しました。空也上人は師氏が亡くなったら棺の上にこの手紙を置き、お許しがあれば手紙は焼けずに残ると伝えます。晴明は空也上人から事情を説明され、再び泰山府君の許を訪れて師氏が無事極楽浄土へ行くことができるよう説得してほしいと頼みます。晴明は承諾し、再び冥府へ行くことになります。晴明は一条戻橋から冥府へ向かいました。
晴明は、人間界において泰山府君は人間の魂を支配する神だと信じられているが本当か尋ねます。すると泰山府君は本当だと言って、死者の中でもう一度会いたいと願う者はいるか聞かれます。晴明は、死んだ妻に会いたいと答えます。泰山府君は獄卒に冥府を探させますが、妻の姿はなく、すでに生まれ変わってしまったのではないかと説明します。泰山府君が言うには、小野篁は確かに冥官として仕えていましたが、輪廻の境に入ったので新しい生を迎えました。晴明に興味を持った泰山府君は、小野篁のように冥府に仕えないか提案します。
炳霊は獄卒たちに晴明を捕らえさせ、彼を仙鎖で縛り付けました。晴明が動揺していると、炳霊は方術によって彼の正体を暴こうとします。炳霊帝君の方術によって、晴明の体から九尾狐の尾が解き放たれました。炳霊が晴明の命を奪おうとしたその時、碧霞元君が間一髪のところで晴明を守りました。十年という長い年月を経て、二人はようやく再会を果たしたのです。晴明は目の前の神仙がかつての妻と同じ容貌をしていることに驚きを隠せません。侍女から碧霞元君と呼ばれているのを聞いて、晴明は彼女が梨花ではなく神女であるということがわかりました。元君は晴明を彼女の住まう宮殿である碧霞宮に連れていきます。元君が晴明の手をとって床に上ろうとすると、侍女が卑しく汚らわしい凡人が床に上ってはいけないと咎めます。しかし、元君は晴明を床に上らせました。
晴明は冥界の獄卒に捕まり、泰山府君の許へ連行された。事情を聞かれた後で追い出されそうになったが、やっと冥界にたどり着けた晴明は、亡き妻に会わずに引き下がるわけにはいかなかった。冥府が騒がしくなってきたところへ碧霞元君が現れた。晴明が狐の子だということがわかり、碧霞は妖狐の統括者として彼を監視することになる。彼女にとって、一度は情を絶ったはずの晴明と再び関わるのは気が進まなかったが、泰山府君の命令だったので渋々従った。こうして、晴明は碧霞と一緒に地上に戻った。
第32話
晴明は碧霞に、梨花が遺した手紙と簪を見せた。碧霞は、梨花の想いは汲むが家族として接することはできないと告げた。晴明は冷ややかな態度の彼女に傷つきながらも、監視役としてでも構わないから側にいてほしいと伝える。
晴明の家で、碧霞は滄溟傘を発見しました。三界においてその傘を扱えるのは碧霞だけでした。真神の力が滄溟傘に吸収され、槍に変化しました。その光景を見た晴明は、梨花の正体は碧霞元君という神仙だったのだと確信します。晴明は碧霞を抱きしめようとしましたが、彼女のよそよそしい態度を見て以前の記憶を失っていたことを思い出しました。
最初は妻と再会できたことに喜んでいた晴明だったが、梨花とはまったく異なる碧霞の振る舞いに戸惑いを隠せません。
碧霞もまた、自分が人間であったときに契りを結んだのが晴明だということが信じられませんでした。
藤原師氏が亡くなり葬儀が行われました。翌朝になって晴明が灰の中を見ると、手紙は少しも焼けていませんでした。それを見て、師氏は極楽浄土に行くことができたのだとわかりました。
十月には、藤原在衡も亡くなりました。
天文生の中で、吉昌は特に聡明で勉学に勤めることを怠りませんでした。そこで、その年の十一月に保憲は吉昌を天文得業生に推薦し、認められました。さらに、保憲に代わって晴明が天文博士に任じられました。
碧霞は庶民たちが安和の変に基づいた猿楽を行っているのを目にします。その内容は、朝廷で権威を振るっている藤原氏が他の一族を排斥するために源氏と結託し、源高明を太宰府に左遷したという残酷な政変でした。首謀者は政変によって右大臣から左大臣へ昇進を遂げた藤原師尹とされていました。
天禄二年(971)、立て続けに藤原氏が亡くなることについて晴明はその原因を占うことになります。晴明は、左遷された源高明の祟りだと奏上し、このまま高明を太宰府に流したままであれば、菅原道真のときのように都に雷が落ちてきたり、内裏が炎に包まれるだろうと脅かします。こうして、朝廷は源高明を太宰府から召還することに決めました。
天禄三年(972)閏二月、藤原兼家は権大納言に任じられました。この時、兼家は右大将も兼任していたので、もうじき大臣になるだろうと噂されていました。
四月、源高明が太宰府から帰京しました。
八月、藤原伊尹が飲水の病に倒れます。
十月、伊尹は摂政を辞任する表を提出しました。その後、兼通と兼家も参内して摂政の辞任を認めるべきだと奏上しました。しかしその後、兼通と兼家はどちらが伊尹の後を継ぐのかということについて口論になり、次第に激しい罵り合いになりました。そうして、伊尹は摂政を辞任しました。辞表が一度で認められたのは異例のことだったので、世間の人々は驚き非難しました。
十一月、伊尹は薨去しました。その後まもなく兼通が藤原安子の遺言状を携えて参内したところ、円融天皇は鬼の間で戯れていました。兼通が近づいていくと、天皇は兼通の方をちらっと見てそのまま奥の方へ入ってしまいます。兼通は滅多に参内して来ないので、天皇は面倒に思ったのです。兼通は天皇に追いすがって安子の遺言状を見せました。そこには、安子の字で「関白のことは、兄弟の順序通りに任じるように」と書かれてありました。天皇は少しの間亡き母を懐かしみ、遺言状を持って奥の間へ入っていきました。兼家は栄進を期待しましたが、意外にも兄の兼通の方が先に内大臣に任じられ、関白にまでなりました。後になって兼家は兼通が策略を巡らせたことを知ります。一方、兼通は娘藤原媓子の入内を急ぎます。
第33話
晴明は、子どもたちには普通の人間として生きてほしいと願い、出生の秘密は自分一人で背負っていくことに決めました。
天延二年(974)、賀茂保憲は暦道を息子の賀茂光栄に継がせ、天文道は晴明に譲ると話しました。
五月、円融天皇の御願により比叡山に大乗院を建立する計画が進められていましたが、担当の藤原典雅が障りを称して動きません。そこで、平親信が現地に向かうことになりました。保憲は大乗院を点地する吉日を選び、晴明も同行することになりました。その日の夜、親信は保憲の家を訪問し、翌日のことを案内しました。その夜は庚申の日だったので、寝ることはできませんでした。翌朝、晴明たちは都を出発して比叡山に登りました。一通り視察を終えた後、阿闍梨の房でもてなされました。本来であれば衣冠を着用すべきところを、保憲が視察する場所が多く不便だと言いました。そこで、土地を鎮める儀式を行う時だけ衣冠を着用することになりました。酉の刻に下山しました。皆で帰京しようとしたところ、保憲が疲労で動けなくなってしまったので親信だけが帰り、晴明と保憲は現地で一泊してから帰ることになりました。保憲は、晴明が自分に弟子入りした時のことを思い出します。彼は未だに晴明の亡き妻の正体が神仙であったことが信じられない思いでいましたが、こうして再び会うことができたのならば、決して手放してはいけないと伝えます。
六月、晴明は天文博士の任を解かれ、保憲の息子賀茂光国が新たに天文博士に就任しました。
十一月、朔旦冬至の叙位が行われました。十一月一日が冬至にあたる日は吉日とみなされたことによります。保憲は造暦の功績によって陰陽師としては異例の従四位に叙されました。本来、陰陽師の最高位は陰陽頭の従五位下だからです。
第34話
天延四年(976)正月、冷泉上皇の女御藤原超子が皇子(居貞親王)を出産しました。
春になって、老若男女問わず庶民を中心に大勢の失踪者が続出します。疾走した人々は掻き消えるようにいなくなり、二度と帰って来ませんでした。鬼に連れ去られたのだという噂が流れました。このことがあってから、都の人々は申の刻を過ぎると家の門をきつく閉ざして外に出なくなりました。朝廷は比叡山から大勢の僧綱を召して、清涼殿において仁王会を行わせました。また、源頼光をはじめ諸国の武士たちが禁門の警固にあたりました。晴明は朝廷に召されて大勢の人々が疾走したのは神仏の祟りによるものか、あるいは悪霊の仕業か占うよう命じられます。晴明が占ったところ、鬼の仕業であることがわかりました。鬼は元々人間の女でしたが、ある時、貴船神社に参詣して妬ましい女たちを殺めるために自分を鬼神にしてほしいと祈願しました。すると貴船明神の神託があり、宇治の川原で鬼神になるための儀式を行うよう告げました。女はお告げに従い、生きながらにして鬼神になったのでした。
五月、内裏で火災が起こり、激しい風が吹いて炎が辺り一面に飛び散りました。この火災の影響で、神鏡は損傷こそしていなかったものの、輝きを失い黒ずんでしまいます。晴明は碧霞元君に、天徳四年にも内裏で火災があったことを話します。碧霞が梨花だった頃、彼女は滄溟傘で雨を降らせて内裏の火災を鎮めたのです。さらに、六月には大地震が起こり、空が黒雲に覆われて大地は激しく震動し、民家が次々に倒壊しました。この地震は二ヶ月間続きました。未曾有の災害が続き、菅原道真の祟りだという噂まで流れました。この災害により、天延から貞元へ改元が行われました。
ある晩、渡辺綱は源頼光の使者として一条大宮まで行くことになりました。頼光は綱に髭切の太刀を持たせます。任務を終えた綱が一条戻橋を渡ろうとすると、橋の東詰を南の方へ渡っていく女の姿が見えました。綱が橋の西詰を渡っていると、女が馴れ馴れしく声を掛けてきて、こんな夜更けに独りでは心細いので、家まで送ってくれないかと泣きついてきました。綱は女を馬に乗せました。途中で、女は一瞬のうちに鬼の姿となって綱の髻をつかみ空高く飛ぼうとしました。綱は少しも動じず、髭切を抜いて髻をつかんでいた鬼の腕を切り落としました。鬼は悲鳴を上げながら愛宕山へ飛び去りました。綱が鬼の腕を頼光に見せると、頼光は驚いて晴明を呼びました。晴明は綱に七日間物忌するように伝え、鬼が腕を取り返しにくるだろうから、鬼の腕には厳重に封をして仁王経を読経するように伝えます。綱が物忌を始めてから六日目の夕方、家の門を叩く音が聞こえました。訪問してきた女は綱の母親を名乗ったので、綱は門の前まで出ていきました。綱は物忌中のため会えないと言いましたが、女にしつこく頼まれて仕方なく門の中に入れました。女は綱に鬼の腕を見せてほしいと頼んできました。綱が渋々鬼の腕を取り出して差し出すと、女は自分の腕だからもらっていくと言ってたちまち鬼の姿となり、逃げていきました。
秋の夜、源頼光の体に冷たい風が吹き付けて激しい頭痛に苛まれました。ようやく宿所に帰り着いたかと思うと寒気が増して、身体中が燃えているかのように汗が湧き出て倒れてしまいました。晴明や頼光四天王たちも必死に看病しました。医師が頼光の脈を診てただの風邪だと薬を渡しましたが、一向に効果はみられませんでした。あらゆる薬を試しましたが、熱は下がりませんでした。
夜になって、頼光は夢が現かも定かでない状態で、誰かが「我が背子が来べき良いなりささがにの蜘蛛の振る舞いかねてしるしも」という古今和歌集の歌を口ずさむ声が聞こえました。頼光が不審に思って目を開けると、燈火の影から見知らぬ法師が現れました。無数の糸筋を頼光に向かって投げつけてきたので、頼光が枕元に置いていた膝丸の太刀で法師を斬りつけると、跡形もなく消え失せました。燭台の下に血の跡があったので辿っていくと、大きな塚の前で巨大な山蜘蛛が傷を負って倒れていました。頼光は膝丸を蜘蛛切と改名しました。
保憲の体調はますます悪くなり、病に臥せってしまいました。自分の命がもう長くないと悟った保憲は、安倍氏が賀茂氏とともに陰陽寮の実権を握っていくことを願いました。
そうして、貞元二年(977)二月、賀茂保憲が亡くなりました。
第35話
晴明は賀茂保憲の弟子として賀茂家の一族に混ざって葬儀を行いました。師匠亡き後、晴明は完全に賀茂家と決別することになります。賀茂光栄は、優秀な弟子とはいえ晴明が父保憲から天文道を譲られたことを内心よく思っていなかったのです。晴明は賀茂氏の所有していた陰陽道の書を隅々まで書写しました。愛弟子といっても、保憲が生きている間は自由に閲覧できなかったのです。晴明はこれらの書物で得た知識を彼がこれまでに学んできた知識と併せて、一冊の本にまとめる計画を立てます。
藤原兼通は重病を患ってもなお、自らの地位を弟の藤原兼家に渡さない方法ばかり考えていました。ある時は兼家が冷泉院の御子を即位させようと企んでいると讒言し、またある時はひたすらに兼家の無能ぶりを奏上しました。挙句の果てには、兼家から官位を取り上げて左遷する方法はないか思案を巡らせていました。
十月、兼通が病に臥していたとき、外から先払いの声がしました。兼通は兼家が見舞いに来たのかと思って待っていると、兼家は屋敷の前を通り過ぎて参内しました。不快に思った兼通が参内したところ、ちょうど兼家が円融天皇に拝謁していました。兼家は兼通がすでに亡くなったものだと思っていたようでした。そこへ不意に兼通が現れたので、兼家はひどく驚きました。兼家は兼通のほうをちらっと見て、鬼の間の方へそそくさと逃げていきました。激怒した兼通は最後の除目を行うと宣言し、次の関白に藤原頼忠を指名します。それから兼家のう近衛大将の官職を取り上げ、藤原済時を大将に任じ、さらに兼家を治部卿へ降格しました。この除目に衝撃を受けた兼家は天皇に長歌を奏上します。その歌には、自分は長きに渡って誰よりも天皇を支えてきたこと、年内に元の官職に戻してほしいと書かれていました。天皇は兼家に、この月だけは我慢するように伝えます。兼家は夢の中で兼通の屋敷からおびただしい数の矢が東の方へ向かっていくのを目撃しました。よく見ると、矢は悉く兼家の屋敷に落ちていきました。兼家は不吉な夢だと恐れました。晴明は兼家から夢占いを命じられて占ったところ、兼家が見た夢は悪夢ではなく、天下が兼通から兼家に移り、兼通に仕えている人々がそのままそっくり兼家の方へ参るという吉夢でした。
退出してまもなく、兼通は亡くなりました。
翌年の除目で、兼家は右大臣に任じられます。兼家は、自分が冷遇されていた当時は藤原氏が絶えてしまうのではないかと思えたと天皇に歌を奏上しました。それに対して天皇は、昔から川の流れのように延々と続いてきた藤原氏なのだから、嘆くことはないと返しました。
第36話
碧霞元君はかつて満月丸に「立派な陰陽師になったら冥官に採用する」という意味で再会を約束していた。賀茂保憲もまた、生前に暦道・陰陽道・天文道の三道を究めた陰陽師であるため、彼女は渋々保憲を冥官として受け入れた。碧霞は炳霊帝君から晴明に正体を明かさないのかと聞かれるが、今正体を明かしたら何をしでかすかわからないと素直になれない。
天元二年(979)五月、晴明の執筆した『占事略决』が完成しました。占事の理論は精緻を究めなければならず、ほんの少しの間違いが大きな間違いに繋がります。晴明は老後までにその核心にたどり着くことを願っていましたが、遠い未来においても吉凶の道理を完全に理解することはできそうにありません。ただ、その一端だけでも書き記し、六壬式盤のもつ意味を抜き出そうと思ってこの書を執筆したのです。晴明は、この書を安倍家の子孫に代々伝えていくことに決めました。吉平と吉昌にも書写するよう伝えました。保憲の死後独り立ちしても未だに自信がなさそうにしている晴明に、碧霞元君は発破をかけます。
播磨国の法師陰陽師蘆屋道満は、仏法には詳しくありませんでしたが占いに優れていて、度々奇特を起こしては人々を驚かせました。道満は、地元で自分と肩を並べる者はいないだろうと慢心していました。
都では、藤原詮子が懐妊し、男子出産の祈祷が数ヶ月間に渡って行われました。
天元三年(980)六月、皇子懐仁(後の一条天皇)が生まれました。
七月、暴風雨によって宮中の樹木・諸門が顛倒し、東西両京の人家の多くが破損しました。大雨は止まず、洪水になって大河のように水が溢れ、多くの舎屋が流損しました。洪水になったのは七夕の後だったので、碧霞元君は織姫と彦星は幸運に恵まれていると冗談を言いました。
ある日、晴明の許に一人の法師が訪ねてきました。法師は従者として二人の童子を連れていました。晴明がどこから来たのか問うと、法師は播磨国から来た芦屋道満という法師で、晴明が優れた陰陽師だという噂を聞きつけて陰陽道を習おうと志して来たのだと言いました。晴明がふと道満の従者を見ると、人間のものではない気配を放っていました。そこで、晴明は道満に今日は忙しくて時間が取れないから吉日を選んでまた来るように伝えました。道満は手を擦り合わせて感謝して帰っていきました。しばらくして道満が戻ってきて、従者の童子が二人ともいなくなったので返してほしいと言ってきました。晴明は従者を道満に返し、他の者ならともかく自分にこんなことをしてはいけないと忠告しました。道満は自分を晴明の弟子にしてほしいと懇願してきました。
十一月、賀茂臨時祭の宣命が奏上されている間に突然主殿寮から出火がありました。陰陽寮が賀茂臨時祭を行うべきか否か吉凶を占ったところ、不吉だったので、臨時祭は停止されました。
第37話
天元五年(982)二月、師貞親王が紫宸殿で元服の儀式を行いました。
三月、藤原遵子を円融天皇の皇后に立てることが決まり、賀茂光栄が立后の吉日吉時を選定しました。
十一月の夜、内裏で火災がありました。円融天皇は職曹司に避難しました。この時、神鏡と大刀契が縫殿寮に移されました。火災によって、累代の宝物が多数紛失しました。晴明は、天徳四年の内裏焼亡で保憲とともに霊剣の再鋳造に携わったこと、梨花の霊魂の残滓によって霊剣の文様が修復されたことをしみじみと思い出しました。世間の人々は、またしても菅原道真の祟りだと噂しました。その噂が本当か確かめるために、晴明は天皇から天徳四年の内裏焼亡の復旧作業のときに道真の和歌が書かれていた柱の木片を渡されました。晴明が実際に木片の虫喰を見たところ、強引にこじつければ和歌と読めなくもない程度のものでした。およそ道真の祟りとは言い難い状況でしたが、碧霞元君は木片に付着している炭がこの世の火ではないことを発見します。
第38話
永観二年(984)八月、円融天皇から師貞親王へ譲位が行われました。
十月、師貞親王が花山天皇として即位しました。即位式の際、天皇は王冠が重すぎて頭が痛むからと言って王冠を脱ごうとしました。花山天皇は重い頭痛を患い、特に雨の降っている日はひどく痛みました。ありとあらゆる治療が施されたが、一向に治りません。晴明が占ったところ、花山天皇の前世が原因でした。晴明は天皇の前世は優れた行者だったこと、前世の髑髏が大峰の岩の隙間に挟まっていること、雨が降ると髑髏が岩に押されて痛みを感じるので、御頭を取り出して広い場所に置けば痛みが治まるであろうことを奏上しました。晴明は天皇から大峰に行き髑髏を取ってくるように命じられます。晴明が大峰を登っていると天狗が襲いかかってきたので、狩籠の岩屋にたくさんの魔類を祀り置き、天狗を撃退しました。晴明が谷底に向かったところ、実際に髑髏が挟まっていました。晴明は髑髏を取り出しました。晴明たちが京に帰ってくると、天皇の病は平癒していました。
寛和元年(985)十一月、大嘗会において晴明は吉志舞を奉納しました。
第39話
寛和二年(986)六月の夜、花山天皇は出家のために密かに内裏を出発しました。その夜は月がとても明るく輝いていたので、天皇は誰かに見つかってしまわないか危惧しましたが、神璽と宝剣が懐仁親王の手に渡ってしまった今となっては後戻りすることはできませんでした。弘徽殿の女御からもらった手紙を忘れてきたことに気づいた天皇は手紙を取りに戻ろうとしましたが、出発するほかありませんでした。その頃、晴明と碧霞元君が家の縁側で涼んでいると、帝座の星が突然移動したのが見えました。晴明が帝の退位を示す兆しだと驚いているところに、家の前を天皇が通り過ぎました。晴明は大急ぎで参内し、このことを奏上しました。女官たちは天皇がいなくなったことに気づいておらず、御座所や御寝所をはじめあらゆる宮舎を捜し回りましたが、天皇の姿はありません。しかし、貞観殿の小門がたったいま人が出ていったかのように細く開いていました。さてはこの門を出て出家に向かったのだろうと、女御や更衣は泣いて悲しみました。天皇の出家を伝え聞いた公卿たちも参内し、呆然としました。御車屋には乗り物があったので、徒歩で向かったのであればまだ遠くには行っていないだろうと追手が差し向けられました。
花山寺に到着して、花山天皇が剃髪しました。すると、藤原道兼は父藤原兼家に出家前の姿を最後に見せてから剃髪したいと申し出て退出しました。その時、天皇は騙されたことに気づいて内裏に戻ろうとしましたが、源頼光らに阻まれてどうすることもできませんでした。兼家はもしもの事態に備えて頼光ら源氏の武者を天皇に同行させていたのでした。
翌日、一条天皇の即位式が行われました。
九月、晴明は吉昌を天文観測の功績によって天文博士に推挙しました。
第40話
晴明は泰山府君に、泰山府君を祀る儀式を行わせてほしいと願い出ます。泰山府君はこれを承諾し、祭祀を行うときに必要な供物は呪文について伝えます。死籍から生籍に名前を移す作業が必要になるため、紙・筆・硯・墨などの筆記用具を供えてほしいのだというのです。また、延命祈願の際の依代として鏡や木製の人形を求められます。晴明は日本に泰山府君の名を広めることを約束して冥府を後にしました。
永延三年(989)二月、円融法皇は一条天皇のことで夢見が悪かったので、尊勝御修法・焔魔天供・代厄御祭を行うことになりました。そこへ、晴明は焔魔天供と代厄御祭の代わりに泰山府君祭を奉仕させてほしいと願い出ます。藤原実資は往古の記録を辿ってもそのような祭祀は聞いたことがないと反対しますが、晴明はかつて自分が非公式な形式ではあるものの、この祭祀を行ったことによって村上帝を疫病から救い、冷泉院の寿命を延ばすことができたのだと説明しました。藤原兼家は泰山府君祭の実施を認め、陰陽寮に尊勝御修法と泰山府君祭を行う日を選ばせます。陰陽寮も聞いたことのない泰山府君祭のことを聞いてざわめきます。こうして、晴明は公の場で初めて泰山府君祭を行うことになります。祭祀の場で、晴明は泰山府君に言われたとおりの供物を準備し、祭文を唱えました。碧霞元君は物陰からその様子を見守っていました。泰山府君祭は無事に終わり、数日後に法皇の夢見はすこぶる良くなりました。晴明は泰山府君祭を陰陽寮の祭祀に加えたいと奏上し、認められます。
こうして泰山府君祭は陰陽寮に受け入れられたものの、現状では数ある陰陽道の祭祀の一つにすぎませんでした。そこで、晴明は自分が生み出した祭祀を盛り上げるために、碧霞元君に天女の役を務めてほしいと頼みます。
一ヶ月後、朝廷で花宴が催されました。晴明は、泰山府君祭の効験は人間以外にも及ぶので、桜の花に泰山府君祭を行って花の命を延ばしてみせようと宣言します。晴明が祭祀を行うと、空から天女に扮した元君が降りてきてその場にいた人々は驚きました。天女は桜の美しさに感嘆し、花びらを袖に隠して天に上っていきました。数日後、本来であれば散っているはずの桜がまだ咲いていました。人々は晴明の泰山府君祭によるものだと感動しました。晴明は、これは自分にしかできない秘術なのだと話しました。
こうして晴明は泰山府君の名を都じゅうに広めることに成功したが、泰山府君は依然として晴明を碧霞の夫として認めなかった。晴明は婚姻関係にはこだわりがなかったが、碧霞はいつか夫を迎える立場である。彼以外の男を受け入れることは、彼女にとっては耐え難い苦痛だった。
第41話 永祚の風
泰山府君は依然として碧霞元君が晴明を正式な夫に迎えることに反対していた。炳霊帝君は碧霞は、梨花が藤原師尹の正妻になれないことで心を病んでいたことを踏まえて、愛する人に同じ思いをさせないと決めていた。
永延三年(989)八月、彗星が出現しました。年号を改めて災いを消すために永祚に改元が行われました。
都で暴風雨が起こり、酉の刻頃から子の終刻まで続きました。激しい風によって普門寺が焼亡し、右馬寮が倒壊して馬が下敷きになってしまいました。
晴明が占ったところ、この災害は西の山に棲む幻術を得意とする鬼の仕業でした。
十月、遍照寺で大般若経の供養が行われました。多くの貴族が参列しました。音楽の演奏があり、大唐・高麗楽の舞と童舞がありました。若い貴族たちや僧たちが晴明に話しかけてきました。彼らは式神を用いて人を殺めたりすることもできるのか聞いてきたので、晴明は虫などであれば殺められるが、生き返らせる方法がないから罪づくりなことをしても仕方がないと答えます。そこへ、庭から蛙が池の方へ飛び跳ねていきました。貴族の一人が、晴明の力がどれほどのものか見てみたいので、あの蛙を殺めてくれないかと言ってきました。晴明は、自分を試そうというのであれば仕方ないと言って草の葉を摘み取り、呪文を唱えるようにつぶやいて蛙の方へ投げやりました。すると、草の葉は蛙の上にかかったところで蛙はぺしゃんこに潰れてしまいました。その場にいた人々はみな真っ青になって怖気づきました。
藤原兼家は太政大臣に任じられ、その御礼参りとして先祖の御墓所へ参詣しました。藤原道長も同行しましたが、道長は多くの先祖が葬られている御墓所に寺がないのはとても残念なことだと思い、いつか自分が偉くなったときにこの地に三昧堂を建てることに決めます。
第42話 酒呑童子
正暦元年(990)、藤原道隆の娘藤原定子が入内し、一条天皇の女御となりました。
都の人々が次々に失踪する事件が起こりました。晴明が占ったところ、大江山に棲む鬼の仕業だとわかりました。大江山には鬼神が棲んでおり、日が暮れると都だけではなく近隣諸国の人々までも数え切れないほどさらっていくというのです。さらわれるのは、決まって見目麗しい娘でした。そこで、一条天皇は源頼光に鬼神を退治するよう命じます。頼光は勅命を承ったものの、自分たちの力だけでは無理だと思い神仏の加護を祈願することにしました。大江山の翁たちが言うには、この山の鬼神はよく酒を呑むことから酒呑童子と名付けられ、酒を呑ませれば前後不覚になるといいます。そこで、碧霞元君は神変鬼毒酒を調合し、頼光に渡した。その酒を鬼が呑めば力を失い、人間が呑めば薬になるといいます。実は、翁たちは八幡・住吉・熊野の三社の神が人の姿をとって顕れたのでした。晴明たちが翁に言われたとおりに河上を登ると、貴族の娘たちを発見しました。彼女たちは家族を恋しく思い、さめざめと泣いていました。河上をさらに登ると酒呑童子の居城があり、夜になると娘たちが召されるといいます。入口では酒呑童子の眷属として星熊童子・熊童子・虎熊童子・金熊童子の四天王が見張り番を務めています。彼ら四人の力が例えようがないほどだといいます。晴明たちは酒呑童子の居城にたどり着き、頼光が都から持参した酒を酒呑童子に勧めました。酒呑童子は盃を受け取って呑み、甘露のような味だと言いました。酒呑童子は女たちにも呑ませたいと言って、姫君たちを呼び寄せました。彼女たちもまた、都の貴族の娘でした。酔いが回った酒呑童子は、身の上話を始めました。さらに、自分の眷属である茨木童子を都に行かせた際に渡辺綱に遭遇したことを話しました。その後、酒呑童子は眷属の四天王にも酒を呑ませ、鬼たちは泥酔して床に転がりました。この様子を見た頼光は姫君たちに近づき、今夜必ず鬼を倒して都へ返すと約束しました。頼光四天王が鬼の手足を鎖で繋いで四方の柱に縛り付け、頼光が首を切り落としました。酒呑童子の断末魔は、雷が天地に響くのかのようでした。星熊童子や金熊童子など十人余りの鬼たちも倒しました。晴明たちは捕らえられていた娘たちを連れて都に帰りました。
第43話 羅城門の鬼
正暦四年(993)二月、一条天皇が急病を患ったので、晴明が御禊を奉仕したところすぐに平癒しました。その功績によって、晴明は正五位上に叙されました。
都では疫病が流行り始め、世の中がとても騒がしくなりました。その勢いは次第に増していき、四位や五位の貴族までもが病で亡くなりました。藤原道隆が亡くなり、藤原道兼が関白を引き継いだわずか数日後で道兼も亡くなってしまいます。晴明が占ったところ、羅城門にいる鬼神の仕業ではないかということになりました。
ある春の夜、晴明は源頼光から酒宴に招かれました。そこには頼光四天王もいました。晴明は頼光に羅城門の鬼神が疫病を撒き散らしていることを話します。渡辺綱は真偽を確かめるために羅城門に行くことになります。夜更けに雨が降りしきる中、綱は羅城門へやってきました。その証拠として頼光から賜った標の札を門の壇上に置いて帰ろうとしました。すると、何者かが綱の兜をつかんで引き止めました。それはまさしく羅城門の鬼神でした。綱は鬼と渡り合い、鬼神は黒雲も向こうに逃げ去りました。
長徳元年(995)、賀茂光栄は宿曜師の仁宗と共に暦本を作ることを申請し、仁宗は造暦宣旨を蒙った。光栄は宿曜師と協力して造暦を行うことで、暦道を実質的に独占しようとしていたのだ。
七月、陣の座において藤原道長と藤原伊周が口論になりました。その様子は闘乱かと思う程でした。その数日後には、道長の従者と藤原隆家の従者が闘乱を起こし、道長の従者が隆家の従者に殺されました。
八月、晴明の許に高階成忠の屋敷において法師陰陽師が道長を呪詛したとの報せが届きます。その呪詛は、藤原伊周の命によるものでした。晴明は道満を疑います。
第44話 長徳の変
長徳二年(996)正月、藤原伊周は故藤原為光の三の君の許へ通っていました。同じ頃、花山法皇はその妹の四の君の許へ通っていました。ところが、伊周は花山法皇も三の君の許に通っているのだと誤解して、隆家に相談します。隆家は花山法皇を脅そうと、弓に秀でた従者に命じて四の君の許から帰ろうとする花山法皇に矢を射させました。隆家の従者が射た矢が花山法皇の衣の袖に当たりました。驚いた法皇は慌てて帰りました。互いの従者同士が闘乱になり、隆家の従者が法皇の従者を殺めました。法皇は女の許に通っていたことを知られたくなかったので事件を公にせず包み隠していましたが、結局のところ大勢の人々に知られることになりました。
二月、伊周の家人の屋敷が捜索され、藤原道長は一条天皇から伊周・隆家の罪科を定めるよう命じられます。
三月、藤原定子が職御曹司から里へ退出します。同行する者は少なく、里第における宴もありませんでした。その後、藤原詮子が病にかかり、大赦を行うことになります。晴明が道長に命じられて詮子の病の原因について占ったところ、呪詛の可能性があるため、寝殿の中に呪物が隠されていないか捜索しました。すると、板敷の下から呪物が縛り付けられた土器が発見されました。また、伊周が私的に太元帥法を行っているという噂もありました。この修法は私的に行ってはいけないものでした。
四月、隆家と伊周は花山法皇を射た罪、藤原詮子を呪詛した罪と私的に太元帥法を行った罪で配流されることとなりました。だが、隆家と伊周は定子の御所に籠もっており、命令に従いませんでした。そこで一条天皇は宣旨を下し、夜に大殿の戸を取り壊して隆家を捕らえさせました。一方、伊周は御所を脱出して愛宕山に逃げ隠れたという報せがありました。すぐに検非違使が山に登って伊周を捕らえ、配所に行かせました。
十二月、法師陰陽師が道長を呪詛したことがわかりました。
第45話 泣不動縁起
園城寺の智興阿闍梨は疫病にかかって心身ともに苦しみ、高熱にうなされました。しかし、大法秘宝や医療鍼灸の限りを尽くしても、一向に効果がみられません。大いに悲嘆した弟子たちは、晴明を呼んで師匠を助けてほしいと懇願します。晴明は智興の様子を見た後、弟子の中から誰かが師匠の身代わりになればその者の名を都状に記し、泰山府君に祈祷して寿命を取り替えると説明します。智興には大勢の弟子がいたが、なかなか名乗り出る者はいません。晴明の言葉を聞いてもなお身代わりになろうとする者はいませんでした。弟子たちは互いに顔を見合わせ、しばらくの間沈黙が続きました。そこへ、十八歳になる證空という弟子が晴明に身代わりを申し出ます。彼は、長年師匠に付き従っていた弟子でした。しかし、師匠に特別気に入られていたわけではありませんでした。證空は、自分は人生の半分以上を生きたのだから残りの人生もそう長くなく、貧しくて善行を積むこともできないため、自分が身代わりになると決めたのです。晴明は、證空の志は大いに師匠の恩に報いるだろうと感動し、ほかの弟子たちも涙を流しました。身代わりの祈祷を行う前に證空は故郷の母に別れの挨拶をしたいと申し出たので、晴明はこれを許可しました。證空の母は證空が身代わりになることを嘆きましたが、證空の師匠への想いを受け入れて送り出しました。證空が戻ってくると、晴明は泰山府君祭を行い、香の煙が燻るなか祈祷しました。すると、智興の病はたちまち平癒し、證空が苦しみ始めました。師匠が助かったので、弟子たちは證空の死に備えて死穢に触れても構わない部屋を用意し、證空も自分の持ち物を整理して遺言を書き、部屋の中で念仏を唱えました。證空は高熱にうなされ、計り知れないほどの苦しみに苛まれました。眠りについた證空の夢の中で神託があり、目覚めると證空は元気になっていました。夜が明けても證空が生きていたので、周囲の人々は驚きました。晴明が泰山府君の慈悲によって師匠と弟子ともに助かったと伝えると、師匠と證空は泣いて喜びました。
長徳四年(998)九月、庚申の日の夜、晴明は殿上に伺候していました。一条天皇をはじめ若い殿上人の多くが眠気を覚えて長い夜を持て余していました。晴明は天皇からなんとかして皆の眠気を覚ますよう命じられます。晴明がしばらく祈祷すると、天皇の御前にあった剪刀台などありとあらゆるものが一ヶ所に集まって踊り跳ね出しました。しかし、ものすごく激しい動きだったので皆驚いて震え上がってしまいました。天皇から皆が怖がらないことをするように命じられた晴明は、それならば皆を笑わせてみると申しました。晴明は明るい場所へ算木を運んでいき、置き広げました。殿上人たちは嘲笑したが、晴明が算木を置き終えると皆は不思議と可笑しい気持ちになって笑い出しました。天皇も笑いが止まらなくなり、部屋の奥へ入っていきました。笑い声は宮中に響き渡り、笑うのをやめようとしてもやめられませんでした。殿上人たちが晴明に向かって手をすり合わせながら笑いを止めるように懇願すると、晴明は算木を押し崩しました。すると、何事もなかったかのように笑い声は止みました。
第46話 主人と式神
長保二年(1000)五月、藤原道長が病に倒れました。晴明が占ったところ、道長の病は式神による呪詛ではないかということになりました。翌日、道長の屋敷で呪物が発見されました。
賀茂光栄は一条天皇から賀茂光国に暦道を伝授するよう命じられます。しかし、光栄は暦道については子息に習い継がせるべきだと勅命を拒否しつつも、光国の才能も認めて陰陽助あるいは博士に欠員が生じたときに任じられるのがよいと答えます。
九月、頒暦の暦本を陰陽寮に送る期日が過ぎたが、未だ進上されてません。これは、賀茂光栄が暦博士の任命を申請しているものの未だ任じられていないからです。そうしているうちに御暦奏の期日が迫ってきています。陰陽寮は暦部門の懈怠によって責めを蒙ることを恐れていました。そこで、暦博士は本来であれば除目の際に任命されるものですが、吉日がありません。藤原道長は光栄の息子賀茂守道を暦博士に任じました。これを知った安倍吉平は、光栄が暦本を作ればよかったではないかと不満を漏らしますが、晴明は敢えて自分で作らず暦本の完成を遅らせることで、息子を博士に任じさせようとしたのだろうと推察します。
十月、一条天皇が紫宸殿に出御する際、晴明は反閇を奉仕しました。応和の前例では陰陽寮が供奉し散供していましたが、晴明が道の傑出者であるため彼が供奉したのです。
第47話 陰陽の達者
長保三年(1001)閏12月、藤原詮子が亡くなったことによって、藤原顕光は天応・延暦の先例に倣って追儺を停止すべきだと奏上しました。その結果、年末は大祓だけを行うことになり、追儺は中止になりました。だが、年末になって晴明は碧霞元君から邪気を祓うために追儺が必要だと言われました。陰陽寮は追儺を中止したので、晴明が自宅で追儺の祭文を読み上げることになりました。だが、晴明は読み上げる声が小さいので、元君はもっと大きな声を出さないと神々に聞こえないと言います。そこで、晴明が大声で祭文を読み上げたところ、外の人々にまで聞こえたようで、皆が呼応して追儺の儀を行いました。
晴明は藤原行成のために泰山府君祭を奉仕することになります。晴明は行成に必要な供物を伝え、延年益算を願いました。
第48話 道満の厭術
藤原道長の許に早瓜が献上されたが、物忌の期間中だったので、晴明は受け取ってもよいか占いました。晴明が瓜を調べたところ、一つの瓜から毒気が感じられました。晴明が祈祷すると瓜は左右にゆらゆらと揺れ始めました。源頼光が刀で瓜を叩き割ると、瓜の中で小さな毒蛇がとぐろを巻いていました。頼光が瓜を割ったときに蛇の頭も切られていました。
長保六年(1004)二月、藤原道長が法性寺の修理巡検のために門に入ろうとした時、連れていた白い犬が道長の前に立ちはだかり、門の中に入れないように吠えまわりました。道長はしばらく立ち止まって様子を見ていましたが、特に変わったことはなかったので再び入ろうとしました。すると、犬が道長の衣の裾を加えて引き止めようとしました。何か理由があるのだろうと思った道長は晴明を呼び、吉凶を占うよう命じました。晴明はしばらくの間占い、犬が道長を引き止めたのは道の下に厭物が埋められているからだと伝えました。さらに、晴明は道長に命じられて厭物が埋まっている場所を探して掘り起こすと、土を五尺程掘ったところに厭物が埋められていました。そこには、土器を二つ打ち合わせたものに黄色い紙が十文字に縛り付けられていました。土器の中には何も入っていませんでしたが、底に朱砂で一文字が書かれていました。晴明は懐から紙を取り出し、鳥の形に折って空へ投げました。紙の鳥はたちまち白鷺になり、南の方へ飛んでいきました。晴明たちが鳥を追っていくと、古民家の中に落ちていくのが見えました。そこは道満の家でした。道満は播磨国へ追放されました。
寛弘元年(1004)、晴明は五龍祭を奉仕しました。夜になって大雨が降り、人々は晴明の祭祀に効験がみられたのだと感動しました。翌日、晴明は褒美を賜りました。
第49話 蘇る記憶
晴明は藤原道長から一条天皇の病の原因を占うよう命じられる。天皇は強い邪気に冒されていた。晴明が泰山府君祭を行うと、九尾の狐が姿を現して都の外へ逃げていった。伝説の悪狐・白面金毛九尾の狐だとわかった。
源頼光と四天王は後を追い、那須野の原で白面金毛を発見した。碧霞元君は激しい雨を降らせて、白面金毛が逃げられないようにした。頼光らが妖狐を退治したが、不思議なことに狐は大きな毒石に変じた。
晴明は毒石に近づかなければ害はないと説明し、人を近づけないために札を立てた。毒石に近づく者はいなかったが、動物が近づいては倒れた。石の周りには動物の骸が積み上がり、殺生石と呼ばれた。碧霞は晴明に気づかれぬよう密かに那須野に向かう。
碧霞が殺生石と対峙すると、少女の霊魂が現れた。彼女は「いずれ時が経てば復活して、再び日本を傾ける」と宣戦布告した。日本に災いが訪れないように、碧霞はここで霊魂を完全に絶つことに決めた。彼女の一撃によって殺生石は二つに割れた。ところが、石から立ち込めた凄まじい毒気が碧霞を襲い、彼女は昏睡状態になってしまう。眠っている間、梨花だった時の記憶が次々と呼び起こされる。
第50話(最終回)
魔尊を倒すための九尾狐の力を解放したことによって、晴明の正体が都じゅうの人々に知られてしまいました。しかし、全身全霊で平安京から災いを退けた彼を物の怪だと恐れる者はもはや誰もいませんでした。正体を知られた晴明は、もうここにはいられないと別れを告げます。晴明は藤原道長に息子の吉平と吉昌を託して、この世を去りました。このときの晴明は八十五歳で、人間であればとうに亡くなっていてもおかしくない年齢でしたが、それでも道長や息子たちをはじめとした大勢の人々が晴明との別れを惜しみました。
碧霞元君の真摯な説得によって、青丘は晴明を正式に狐族の皇子だと認めます。青丘において、晴明はついにかつての母親と再会を果たしました。しかし、青丘の皇子の身分をもってしても、真神である元君とは未だ釣り合いません。そこで、玄天上帝が特別に東海の神仙の称号を与えた。元君は晴明に上帝は自分の師匠だと紹介しました。そのときになって初めて、晴明は幼少の頃に出逢った白雪と元君が同じ存在だと知りました。彼にとって、陰陽師を志したきっかけである白雪が人間に転生したのが梨花で、梨花が人間界での試練を終えて真神に昇格したのが碧霞元君だったのは、思いもよらないことでした。
三年後、北宋の皇帝真宗は封禅のために泰山に登り、玉女池を訪れました。突然、池から女神の石像が湧き上がり、真宗は石像を碧霞元君として祀りました。後に元君は泰山府君を凌ぐ人気となり、彼女を祀る廟が次々と建てられました。碧霞元君の傍らには、夫として、冥官として常に彼女を支え続ける晴明の姿がありました。