【平安時代】藤原師尹の日記『小一条左大臣記』の現代語訳
💡藤原師尹の紹介
生没年:延喜20年〈920年〉 - 安和2年〈969年〉
藤原忠平の五男。
『小一条左大臣記』の現代語訳
天慶五年(942年)
8月8日 大学に参る
外記の告げにより、大学に参った。
都堂の講義は、一に例のとおりであった。ただし、弾正が制したので宴饗はなかった。
天慶九年(946年)
6月23日 外記政
今日、右相国(藤原実頼)が初めて外記侍従所の申文の儀に着した。一に納言に申したのと同じであった。ただし、やはり挙結があった。まず、このことは疑いがある。その理由は、殿下が大丞相に任じた時、故右大弁淑光朝臣が言ったことには「故大蔵善行朝臣が言ったことには『太政大臣が上にいる時、南申文は行わない。大臣に申す儀式である』という。その時、故恒佐丞相は猶予して庁に着さなかった」という。
今、事はやむを得ず、宜しきに従ってこの儀を行った。ただし少納言が盤を取って進む事は、旧例によって行った。9月25日 御禊装束司
「御禊装束司中納言以下が、今日初めて官の東庁に着し事を行った」という。10月7日 御禊前後次第司
「この日、御禊前後次第司が八省廊に着し、初めて事を行った」という。10月28日 大嘗会御禊
今日、村上天皇が鴨川水に臨幸し、御禊を行った。
午二刻に宮を出発し、未一点に禊所に到った。申二点に禊を行った。酉刻、宮に帰った。儀式は、詳しく記すことができなかった。11月24日 女王禄
「この日、女王禄を下賜した。公卿は皆、障りを申して参らなかった。弁官が事を行った」という。
天暦元年(947年)
6月25日 八十島祭使の発遣
八十島祭により、典侍滋野幸子が今日の明け方に離宮に下向した。
ところが、内裏の触穢のため、使者左近番長を差し遣わして召し返させた。10月13日 藤原述子の葬儀
この日の夜、弘徽殿女御(藤原述子)を葬った。
村上天皇は詔して従四位上の位階を贈った。勅使は左中弁(大江)朝綱朝臣・左近少将国紀である。「殯車の前において宣命文を読んだ」という。
天暦二年(948年)
1月8日 御斎会
午三刻、上(村上天皇)が八省にいらっしゃった。申刻、宮に帰った。
今日、衛府を帯びる公卿は弓箭を帯びた。堂に入っている間、解かなかった。「この夜、参議が参らなかったため王禄を下給しなかった」という。
天暦三年(949年)
9月23日 斎宮群行
今日、斎王が伊勢に下向した。按察使中納言(藤原在衡)を長奉送使とした。村上天皇が八省院にいらっしゃった。斎王が遅参して臨んだためである。9月24日
「寅の刻、還御した」という。10月25日
今日、初めて院に参った。この日、勅使が故殿(藤原忠平)に参り、左閤(藤原実頼)に相逢った。拝舞はなかった。被物は通例のとおりであった。これより前、左相が上表し、先考(藤原忠平)の封邑を辞した。そこで今日、この勅答があった。11月15日 五節試の停止
今夜は、五節の試が行われる予定であった。ところが、中宮(藤原穏子)のご病気のため停止した。
天暦四年(950年)
1月18日 賭弓
今日は、賭弓であった。左右大将が召しによって内裏に参った。〈両人、重服であった。〉左閤(藤原実頼)は奏上を進めた後に退出した。右閤(藤原師輔)、近衛府は一度射終わって退出した。「右近・左兵衛が勝った」という。3月29日 賀茂祭の日時を定める
左大臣(藤原実頼)以下が陣頭において賀茂祭のことを議定した。
外記か勘申して言ったことには「先例を調べたところ、下の申・酉の日にこの祭を行った例はありません」という。そうはいっても、他の祭に准えて下の申・酉の日に行うことを諸卿が定め申した。そこで、その決定に従った。
進物所の膳部が穢に触れ、去る二十日にその場所に参ったのである。そこで、この決定があった。4月17日 賀茂祭延引の大祓
賀茂祭延引の大祓があった。閏5月4日 申文
業恒宿禰の事、壱岐守如松の解由の事ばかりを申した。
今日、左相府(藤原実頼)が庁政に着した。南所に着したところ、所の預及び大舎人がいなかった。そこで内豎を召し、権に事に従った。8月20日 駒牽
上野国の御馬を分け賜い、信濃国の御馬を公卿・侍臣に分け賜わなかった。左大臣(藤原実頼)は特に行事を隔てなかった。
夜に入って、大雨が降った。大臣以下殿上の侍臣は宜陽殿の西廂において慶賀を奏上した。8月29日 石清水宮使の発遣について
院(朱雀上皇)の仰せに言ったことには「来月三日、石清水使を発遣したい。ところが、その日は御燈に当たる。もしくは准えるべき事があるだろうか」という。
『三代実録』を調べたところ、貞観元年・元慶二年の御燈の日、神事・仏事を行われていた。そこで、その事を奏上させた。9月11日 伊勢例幣
村上天皇は、八省院にいらっしゃらなかった。前例により、使者を発遣した。太上皇(朱雀上皇)の在位の時の御願により、神宝・幣物をこの使者に託し、その宮(伊勢神宮)に奉らせた。ただし、今日は院司を差し遣わして八省廊に就き、使者に託させた。9月26日 残菊宴を定める
左閤(藤原実頼)、仰せを奉り、九日節を改めて十月に残菊の宴を行うべき詔を中務省に下賜した。ただし、内記が伺候していなかったので、殿上から(大江)朝綱朝臣に命じてこれを作らせた。10月17日 造暦の議論
左大臣(藤原実頼)、仰せを奉り、陣頭において両暦博士(賀茂保憲・大春日益満)を召問した。算の訛謬(誤り)のため、算博士宗平を召し、この座に預かった。11月7日 触穢
召しにより、内裏に参った。
仰って言ったことには「内蔵助以上が内裏の穢に触れ、春日祭に参らなかった。社頭に参る諸大夫を選び、寮使とするように」という。外記有方を召して伝えた。12月13日 荷前の延期
今日、荷前が行われる予定であった。ところが昨日、仰って言ったことには「神今食の斎中に幣物を包むのはすこぶる不穏である。延喜の御時は行わなかった。必ず来る十七日を用いるように」という。
左大臣(藤原実頼)は仰せを奉り、諸司に伝えさせた。〈延喜十七年・二十一年の両年の前例である。〉
天暦五年(951年)
1月2日 東宮大饗
諸卿が院に参った。次に、東宮(憲平親王)の饗所に参った。
物忌により、后宮(藤原穏子)の饗はなかった。1月3日 東宮拝礼
東宮(憲平親王)の宮臣が拝礼を致した。須らく二日に行うべきである。ところが雨湿により、昨日、停止した。1月15日 右大臣大饗
今日は、右府(藤原師輔)の大饗であった。致仕宰相(伴保平)を召して座に預かった。三献の後、さらに謝座し、座に着した。2月17日 官奏
今日、初めて官奏があった。左大弁は非参議だが、大臣が官奏を見ている間、召して参議の末席に着した。11月1日 春日祭使の停止
春日祭使は、急な穢によって停止した。外記、大祓があるべき事を告げ送った。そこで参った。先例がなかったため、祓はなかった。12月23日 荷前
今日、荷前があった。未三刻、上(村上天皇)が建礼門にいらっしゃった。使者の公卿は、多く参らなかった。そこで、殿上から遣わし召した。
晩になって、たまたま参入した。その後、使者を発遣した。ただし、天皇は幄の後ろにいらっしゃった。雨脚が降り始めた。装束を改めるのに煩いがあった。そこで、公卿以下は笠・深沓を着用し、事に従った。秉燭に及び、事が終わった。
天暦六年(952年)
4月29日 憲平親王の藤壺参入
「東宮(憲平親王)が輦車に乗り、藤壺に参った。右大臣(藤原師輔)及び宮司の殿上人が輦の後ろに従った。帯刀は相従った。召継を車副とした」という。ただし、陣頭の侍者には内舎人を啓上した。今回は伺候しなかった。10月12日 主殿寮行幸
今日、村上天皇は主殿寮に行幸し、大后(藤原穏子)のご病気を問い奉った。御心喪の期間中のため、警蹕・鈴奏はなかった。また、御装束は皆、鈍色を用いた。御冠は巻纓であった。夜に入って、還御した。扈従の公卿が名を名乗ったのは恒例のとおりであった。10月17日 故朱雀院の御馬献上
故朱雀院の御馬十疋が大内裏に献上された。
左中将(藤原)朝忠が中宮(藤原穏子)に奉った。「事情を伝えた」という。12月9日 藤原伊尹宅の死穢
(藤原)伊尹朝臣宅の井戸に、死人の頭部及び筋があった。ところが、その事を知らず大内裏に参った。今日、公卿にその穢を定めさせた。公卿が申して言ったことには「先例を調べたところ、このような穢があった時は、ある時は七日、またある時は穢としませんでした。処分に従いますように」という。伝えて言ったことには「七日の穢とするように。来る十一日の神今食は、所司に託して行わせよ」という。12月19日 郡司召の停止/賀茂臨時祭
郡司召により、官に参った。ところが、諸司の準備ができていなかった。そこで、停止した。
「今日、賀茂臨時祭がありました。御前において、ただ、酒饌を給わりました。歌舞はありませんでした。建春門を出て、音声を発しました」という。12月29日 追儺
東宮(憲平親王)に参った。
追儺の分配及び元三日の後取を定めた。その後、承明門の東腋の座に着した。しばらくして按察中納言が参り着した。
私(藤原師尹)が中納言に語って言ったことには「方相氏は御前を渡り、北門を出る。ところが、昨日と今日は御物忌に当たる。前例は如何であろう」という。
納言が外記傅説を召して先例を調べさせたところ、すでに所見はなかった。そこで傅説を差し遣わし、蔵人に託して案内を取らせた。帰ってきて言ったことには「蔵人清時が仰せを伝えて言ったことには『前例によって行うように』ということでした」という。
亥一刻、諸衛が門を開いた。追儺の儀は、恒例のとおりであった。
天暦七年(953年)
1月4日 卯杖
御卯杖により、東宮(憲平親王)に参った。右大弁(藤原有相)が言ったことには「供奉の諸司は吉服に従うようにとの事でした。ところが、鈍色の衣を着用して参入するのは如何なものでしょう」という。
私(藤原師尹)が陳べて言ったことには「今日の事は、大義ではない。もし便宜がないのであれば、ただ、退出するだけだ。吉服を着用することにおいては、もっとも憚りがある」という。
弁が言ったことには「これは気色を示すべきです」という。しばらくして、また仰って言ったことには「御杖は亮以下を供奉させる。そなたは陣座に伺候して事を行うように」という。仰せにより、陣座に伺候した。
未二刻、紫宸殿にいらっしゃった。近衛が階下に陣をとった。後に学士・亮以下が御杖・案を舁き献上し奉った。その後、大舎人・左右兵衛がこれを献上し奉った。1月8日 御斎会
八省に参った。御斎会は、恒例のとおりであった。
去る朔日・七日の宴会では音楽がなかったが、今日は恒例のとおり(音楽が)あった。〈音楽がなかったのは、去年に太上皇(朱雀上皇)が崩じられたためである。〉7月21日 相撲の日程
陣において、左大弁(大江朝綱)が仰せを伝えて言ったことには「相撲召合には、二十八・九日を用いるべきである。ところが『二十八日は公卿の物忌に当たる』という。二十九日・三十日にしようと思う。その三十日は、臨時奉幣の前斎に当たる。須らく前斎の日にこのようなことを行った前例を調べさせよ」という。
外記を召し、このことを命じた。申して言ったことには「天暦二年八月十八日、臨時奉幣がありました。ところが、その月の十七日に上(村上天皇)が紫宸殿にいらっしゃり、穂坂の御馬をご覧になりました」という。すぐにこのことを奏上した。仰って言ったことには「この前例により、二十九日・三十日に相撲を行うことについて、近衛府を召して伝えよ」という。外記に命じて、左右近次将を召させた。
この時、左近中将(良岑)義方・右近中将(源)重光が日華門から入り、陣の南軒廊に列立した。すぐに事情を召し仰せた。前例では、左右佐が一々膝突に着し、仰せを奉る。ところが今日、軒廊に列立したのは非常に違例なことだ。通例とするべきではない。
天暦八年(954年)
2月11日 列見
列見があった。宴・穏座はなかった。諸卿は朝所の間に着した。上(村上天皇)が見参した。3月8日 除目
今日から除目の議がある。3月14日 除目
除目の議が終わった。申の刻、清書を奏上した。官に着し、これを召させた。〈去る正月四日、母后が崩じた。〉4月1日 旬平座
諸卿は宜陽殿の座に着さず、ただ、陣座において大盤を召した。両三巡の後、各々退出した。
見参を取らなかった。侍臣を召さなかった。諒闇の期間中によるものであろうか。8月16日 信濃国駒牽
信濃国の御馬を牽いた。府陣が饗を儲けた。
六、七巡の後、王卿が大庭に向かった。御馬を賜ったのは、通例のとおりであった。終わってから弓庭に向かい、慶賀を奏上した。
これより前、諒闇の年にこの饗の有無を調べさせた。去る仁和四年に饗があった。承平元年は、御馬を牽かなかった。仁和の前例により、饗を儲けたのである。9月20日 官庁の官号を定める
春宮大夫(藤原師尹)が華芳坊において官庁の官号を定めた。
年来、亮以下が座に着し、この事を行う。ところが今年は、両亮に障りがあって参らなかった。そこで、この事を点定したのである。11月27日 賀茂臨時祭の停止
賀茂臨時祭に当たる。
「しかし、遏密(諒闇)の期間中であるため、その事を停止した。そこで、御禊があった」という。
天暦九年(955年)
11月1日 内匠寮
内匠寮、作る。
天暦十年(956年)
4月19日 諸社奉幣/憲平親王が初めて『孝経』を読む
今日、諸社に奉幣した。〈天変・旱炎による。〉上(村上天皇)が小安殿にいらっしゃった。伊勢使を発遣した。還御の後、左大臣(藤原実頼)が陣頭において諸社の奉幣使を分配した。
申の刻、皇太子(憲平親王)が初めて『孝経』を読んだ。諸卿が参会した。
天徳四年(960年)
9月23日
橘、元の主、秦保国である。
康保四年(967年)
9月4日 昌子内親王の立后について
即位以前の立后は、すこぶる許されないことだ。〈帝(冷泉天皇)の妻(昌子内親王)〉
安和二年(969年)
1月2日 東宮拝礼/二宮大饗
晴れ。日が入ってから東宮(守平親王)に参り、拝礼を行った。
夜、二宮大饗があった。〈この時、(藤原師尹は)右大臣である。〉
年月日不明
御仏名
この夜、盃を賜った後、禄を下給した。
また、藤壺女御が禄を公卿以上に下給した。外記政
ある日記に言ったことには「もしくは上卿が外記庁に着した後、後に参入して入り来る前に外記庁に着する。ただし申文の間、しばらく急所の辺りに留まり立つ。申文が終わった後、これに着する。もしくは入って来た後、左衛門陣に着する。外記政が終わり、出立する時に臨んで深沓を履かず、垣の下に進み立ち、いつものように前行する」という。
「左衛門陣に着するとき、もし上臈の上卿が遅参したら、外記に着さず大内裏に参る。すぐに座を起ち、相従って参入する」という。