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口伝を調べてみた話 混乱雑記

先祖を調べてようと思う方の多くは
「我が家は、武士だった」等、家庭に伝わるお話を調べたいから始めた。
そんな方が多いのでは無いでしょうか。

我が家もご多分に漏れず
「昔は武士で、一国一城の主だったが戦に負けて落ち延びてきた」
という言い伝えがあります。親戚のどこのお宅でも聞けるお話だったりするので。まあまあ、盛大に盛られている可能性が大ですが・・・。

一通り、戸籍を取得して。
文献を読み込んで、宗門人別改帳や、分限帳、過去帳、墓などを調べ終わると「そろそろ口伝と繋がる所が出てこないかな」と思う物です。私だけかも知れませんが(笑)

親戚に聞き込みをしてみた所。
色々と知っていた、高齢者は軽い痴呆が入っており。
覚えている事を、細切れに話してくれるものの「それ」がどうイコールになっていくのかが分からない状態だったりして。まあまあ、謎が深まるばかりなのです。

ついでに、我が家。
過去に先祖を調べた方が3人いらっしゃって。
皆さん、仮説を立てて調べているので「空白」の部分は仮説で埋められているので、先祖のベクトルが3つも4つもあるのです。
もう、大混乱。

どこから来たというお話も
①元々京都にいた
②西から来た
③東北に領地を持っていたから一時期東北にいた
④伊豆にいた
⑤先祖の地から、もっと山奥から出て来た
ホレホレ、どこから来たかだけでもこれだけあるんですよってことで。

これを正しい話に都合良く纏めると。
①元々京都に住んでいたが
④何かのご縁で伊豆に行き
③東北に領地を貰ったので東北で暮らし
⑤先祖の地に来る前に、この近くの山の中にひっこんだ。

まあ、こういうことも長い歴史では無いとは言えないワケで(笑)

じゃあ、どこで武士をやっていて落ち延びたのかってのも分からない。
一般的に落ち武者って言ったら、戦国時代に負けたんだろうナァー。
ですが、源平合戦でとか、鎌倉滅亡時にとか、室町幕府滅亡時に。
って事も十分あるので、カオスなんてもんじゃ無い。
広大に広がる宇宙で、米粒を見つけるみたいなイメージになってきました。

先祖の地で纏められた村史によれば
「今よりおおよそ580年前、元弘3年の頃北条髙時以下一門の将士自殺して北條氏滅亡の際。この家臣等の中に、この山中に隠れ入りし者。終いに、小屋を構えて、この村を形成せしものなりと伝う。こうして、当時の祖家は僅か17戸なりと伝えらる。現在北条姓を称する者村内の半数を占めるをみてもこの伝説の空しかざるを知るなり。

尚、一説によれば、当村における北條氏は蒲原北条が敗軍したる際に興津より山を分け入り。小河内に居を構えたりが起こりなり。」

読みやすく、ある程度書き換えておりますが(笑)
大正期の村史には、こう書かれています。
ちなみに、この村史の出所は、明治期に書かれた。
この村の前身である、町の町史からの様です。全く同じ物を記載しています。ただ、他の有名な歴史書にはこの記述は無いので村の誰かからの聞き込みかと思われます。

後年、公の出資で蒲原城について調査した文献によれば。
北條氏については、後記の蒲原城落城の際に落ち延びた「北條氏」が土着したということが正しい事が判明したようです。(物的証拠から)
村誌については、小学校の先生方が依頼に応じて仕事の合間に作成したものだとの後記がありましたので・・・多分、蒲原城云々が正しいのでしょう。

そうなると、元弘3年/正慶2年(1333年)に落ち延びてきた人達は、どこの誰だったのかという話になります。鎌倉幕府滅亡の落ち武者と思って、無難な気がしてきました。

そこで、親戚から聞いた「我が家の先祖は宮城四郎という人」という話しを信じて、国立国会図書館デジタルコレクションを検索してみることにしました。少し痴呆が入った状態の方だったので、どこにいた人?官位とか?と矢矢継ぎ早に聞くと「伊豆・・・だったか」とボソッと言われて伊豆ねぇ。

そう思っていました。
すると 大日本地誌大系 第40巻に、宮城四郎という名前を発見。
元は「東鏡(吾妻鏡)」からの抜粋だそうだ。
鎌倉幕府の御家人で、鎌倉の甘縄に屋敷を構えており。東北の謀反疑惑を解決するために、命を受けて奥州まで行き。問題の武将を討ち滅ぼしたことで、宮城県苦竹を所領として貰い受けたとある。

色々と調べて見ると、彼の名前は元々は、伊沢四郎家業。
伊沢家景の弟で、家景は後世『留守』姓に改姓。
伊沢四郎家業は、宮城姓に改姓。
ということらしい。

伊沢家の本姓は「藤原北家九条流」とのこと。
今年の大河ドラマ、光る君への時代。
藤原の道長の兄である、道兼の玄孫に当たるそうだ。
都でいわゆる祐筆として、藤原氏に雇われていた所を北条にスカウトされて鎌倉幕府に同じく祐筆(文官)扱いで入り。
陸奥国を褒美として貰い、陸奥国の留守役として名を連ねたらしい。

ここまで来て、先祖は「源」だと言う親戚が居たことを思い出す。
う~ん、これはスカか。同姓同名さんか。
そう思いつつ、引き続き調べる。

当然、宮城家業の子孫は鎌倉滅亡後も安泰ではないものの生き続けている。
しかし、後の時代にといっても・・・鎌倉滅亡から20年弱で、地元での戦で落城の憂き目に遭っている。宮城氏の筆頭は生け捕りにされたらしい・・・その後の処置は書かれていないが打ち首が妥当だろう。

ただ、この戦。
宮城氏と留守氏が、京にのぼって政権に「領地の争いの正当性」を上奏する事も予測されていたので急いで捕らえたのだろうという記述もあり。
もしかすると、一族の中から誰かが密かに京に向かった可能性もゼロでは無いのかなと思うのです。

この戦の前ですが、宮城氏(留守氏)は一族17人との記録が残っています。
※留守氏は、後継者が居らず。宮城氏から養子を貰い家系を繋げています※
この時代ですから、分家も併せて17家と言うことかと理解しました。
女子供まで合わせて17人ということは無いでしょう(笑)

そして、我が先祖の地の史誌には「当時の祖家は僅か17戸なり」と伝えられている。と。偶然の一致にしては、少し気になる部分ではあります。

しかしながら、没落の危機に後。
留守氏は、負け戦の後、残された親族が上手く立ち回り明治の世まで綺麗に系図を残す状態を生み出しています。戦国期から後は、伊達に姓を改めています→いわゆる水沢伊達氏。ただ、宮城氏に関しては戦の際に記された名前が最後で歴史から名を消しています。

ここまでの歴史を元に、口伝と比べて見ることにしました。

宮城四郎は、元々京都の出身。
その後・・・・伊豆から鎌倉に移転して間もない頼朝に仕え。
<現在は「イイハコ(1185年)作ろう鎌倉幕府」に変わっている>
時期的には、鎌倉に頼朝が居を構えてすぐから仕えていたとおもわれ。
<ただし、1192年と考えると、伊豆時代から仕えていたと理解してもおかしくない。>

その後、鎌倉幕府に仕えた功績から宮城県に領地を持ち。
鎌倉幕府滅亡時は、上手く立ち回り新政府に繋がった。

だが、その直後。
地元の領地争い(戦)で敗退、当主は拘束され斬首されたが。
一族(各家から)1人ずつ集まり、京に密かに登る途中で「落城」の報を受け山中に入り土着。※一族17名という記述が合致することから推測※
そんなストーリーも、無理矢理ではあるけれど成立しそうな感じもあり。

結局、頭をフル回転して混乱して終了という現状に笑いが堪えきれない私です。やはり、口伝を証明するのは、難儀ですね。

ということで、口伝を調べてみた話 混乱雑記でした。

大変光栄です!ありがとうございます❤️