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白山芳太郎『神社の成立と展開』富山房インターナショナル

人類の歴史の99%は狩猟採集生活で、土器は発明されず、生で食べるか、焼いて食べるかしていた。煮物用の土器を持つ狩猟採集生活というのは日本にしかないという。

農耕は、狩猟採集生活によって食材を採りつくした場所から始まる、しかし、日本列島の人びとは探りつくさなかった。それほど自然が豊かであった。

食材を採りつくせないほど豊かなところでは「定住」した。三内丸山遺跡や、真脇遺跡などの縄文遺跡では、ながく定住し、それとともに、空中楼閣の構造物があって、そこで祭祀が営まれていた。

真脇遺跡の「大型掘立柱遺跡」の周りから出土したイルカの骨は、イルカの霊を天上に送り、それに感謝したイルカの子孫が次に来てくれるよう祈ったのではないかという。

真脇遺跡の環状木柱列は、地上からみた「天橋立」であったと思うという。『丹後風土記』の記載によると、「天橋立」はイザナギノミコトがいねむりをしたとたん、パタンと倒れて、今のようになったとある。「天橋立」は宮津湾に面した地であり、真脇遺跡は真脇湾に面した地である。

諏訪大社の「御柱祭」という4本の柱を立てる神事がある。神社に向かって左手前を一の御柱、左手奥を二の御柱、右手奥を三の御柱、右手前を四の御柱といい、左手前から時計回りとなっている。それをつなぐとサークルになる。

諏訪大社の祭神は「建御名方たけみなかた神」である。「国つ神」の中心「大国主」の子で、父や兄が考える「国譲り」に反対した神である。負けいくさとなって出雲から逃げ出す。糸魚川に向かい、さらに上田の「生島足島神社」に逃げたと思われる。

生島足島神社から真南にむかって大門街道が走り、その南端の大門峠を越えたところが諏訪大社下社がある。諏訪の地で、後方から追撃してきた武御雷たけみかつちに降参する。諏訪を出ないことを条件に死を免れる。

このようにして諏訪の神が祀られた。父の神(出雲の神)との関わりを感じさせる「しめ縄」が張られている。なお、伊勢神宮には「しめ縄」がない。

明治以降、政治理念の根底に復古神道を置いたことにより、それまでの神仏習合に基づく様式の一掃を計り、国学で唱える「祭政一致」を実現しようとした。1868年、神仏判然令が神社に出された。

神社にある神宮寺に対し、土地、建物、本尊、仏具、仏典を無償で譲渡して独立させ、神社の事務を僧の姿で行ってきた者が神職に転職したい場合には、これを許した。

1889年、大日本国憲法が制定されると、神道は「国家の宗祀」とされ、宗教とは別であるとされた。つまり、「宗教」ではなく「道徳」であるとされ、これにより神道の自然な宗教的発展は阻害された。神職は「祭祀の厳修」を行うことが使命とされ、「神道教化」を行ってはならないとされた。

1906年、原敬内閣は「神社合祀令」を発令した。その後の第二次桂内閣の内務大臣平田東助は「一村一社」を厳命し、全国平均で5割の神社が消滅した。和歌山県、大阪府、三重県、東京府の神社生存率は一割である。

第二次大戦の終結後、占領した連合軍により「神道指令」が出され、全国の神社は、包括法人としての神社本庁を設立し、その包括下も入って今日に至っている。

著者は、自然を愛する心である日本人の根底にある信仰の上に、別の信仰がある「重層信仰」であるとする。寺にも神社にも参ることは普通であるという。神道や神社に価値があると思えば、それを学び、家庭教育で伝えることを、著者は希望している。




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