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バスに乗りそこねたこともすべて正しいと思えた日


先日、所要により、午前だけ有給休暇をとりました。
なに、毎月の薬の処方箋をもらうだけです。土曜日に行ってもよかったのですが、せっかくの有給休暇ですから、使えるときは使わないと。
ただその日、バスの乗り継ぎには苦労しました。

まず、小樽と札幌とをつなぐ高速バスには3系統あります。仮に、A・B・Cの各系統としましょう。
メインはA系統で、これは1時間に数本走っています。Bは札幌の終点が札幌駅ではなく、大通公園のそば。
そしてC系統は、ぼくが通勤に使っているものです。A、B系統の
早朝の勤務時間帯は1時間に数本ですが、それ以外の時間は1時間に1本です。

で、上記の日ですが、を出たら、ちょうどバスがやってくるのが見えました。
バスと病院との距離は、およそ100メートルくらい。病院の前からバス停まで、およそ200メートル。
あわせて300メートルを、バスが走るのが速いか。
それとも、病院からバス停までの200メートルをぼくが走るのが速いか!?

いや、言うまでもなく、あっという間にバスが追い抜いて行きましたよ。
こっちは年寄りですし、しかも若いころからの鈍足です。競走には、きっと負けるという自信がありましたもの!

それでも乗車する客が多ければ、バスの停車時間が長くなり、その間に追いつけなくもないという希望的観測もあったのですが。
残念なことに、バス停にいたのは一人きり。バスは無情にも行ってしまったのです。
バスを見て走っているハンサムで上品な老人の姿は、運転手さんにも見えたはず。
「どうして待っていてくれないのか、バーロー」と、日ごろからハンサムで上品な還暦紳士を僭称しているだけに気高く悪態をつきました。でもバスの後ろ姿は遠ざかる一方。

しかし去るモノは追わず、覆水盆に返らず、こぼれたミルクを泣いても無駄、行ってしまったバスを眺めても無駄無駄無駄無駄無駄無駄ぁっ!(ジョジョか?)
気を取り直して、A系統のバスに載るべく市内線のバスに乗って移動。
そして、乗り換えのバス停が200メートル先に見えたとき、またもやA系統バスがやってきました。
これまた、追いかけても追いつくのは無理なタイミングで、
「今日はどうもバス運が悪いな~」とつぶやいていましたよ。

幸いなことに、B系統のバスが5分後に来るようです。まんざらでもないか、とバス停で佇む頽齢の貴公子でありました。
ところが……。
「乗りそこねたバスは時間通りに来るが、次のバスを待っていると必ず遅れてくる」
という法則が発動されたようで、時刻表に記された時間を過ぎてもバスが来ません!

つくづく、バス運のよくない日であることよ。

B系統のバスは、数分遅れて到着し、その後の運行は順調でした。この時期にしては積雪も少なく天気もよかったですし。
到着したのは、C系統のバスに乗れた場合と大差のない時間でした。

さらにB系統のバスの終点は、いつも利用している図書館(札幌図書情報館)がある創成プラザのそばなんですね。
時間があったので立ち寄ってみると、絵本のイベントが開催されていました。

面白そうなのでのぞいているうちに、企画運営を担当されていた方とお話しできて、名刺交換までしてきましたよ。

こうして見ると、結果的にはC系統のバスにもA系統のバスにも乗れず、C系統のバスに乗って来たことがよかったのかな……。
いわゆる、結果オーライということか。

「起きているすべて正しい」とは勝間和代さんが書いた本ですが、この言葉、気に入っています。
座右の銘というか、開き直る際の啖呵であります。

そうだ、起きていることはすべて正しい。
起きてしまったことは受け入れるしかないのですよ!

この場合、「正しい」の解釈が多少問題になりますけどね。
「それじゃあ、お前は戦争や紛争、目を覆うような悲惨な事件も、起きてしまったら正しいというのか?」なんて詰め寄られると困ります。
ですから、ここでいう「正しい」とは、現実を現実して受け入れること、かな。

まあ、そう複雑に考えなくてもいいんだろうけど。