比喩的連続体としての嗅味覚世界
うまいエスプレッソを出すそのカフェには、スペシャルティを名乗る浅煎りから中煎りくらいの豆がいつもとり揃えてあった。というよりその店の本体は豆の焙煎と販売で、いつも異なる数種類の豆が、風味を描写する説明書きとともに並べられていた。
たとえば「シトラスの酸味」「蜂蜜の甘味」「白桃の風味」というように。そこでコーヒーは、ほとんどなにか別の食べものや飲みものの香りや味わいによって記されている。
ある日、この言葉たちが気になって、すでに顔見知りとなっていたバリスタと話し込んでしまった。「なんでこういろいろ他のもので喩えるんですかね?」
興味本位で聞いたとはいえ、浅はかな質問だったとは思う。このコーヒーはコーヒー味です、なんて書けないのだから。かといってこいつはやばいくらい苦いコーヒー味とか、コーヒーのくせにちょっと甘いとこがいけてるとか書いても基準がないからよくわからないわけだ。
「んー、たぶん、たとえば酸味は酸味でもさまざまな種類の酸味があるからじゃないかなー」と答えてくれた。たとえばレモンとオレンジの酸味はその酸の鋭角さにおいても風味においてもずいぶん異なる。そうした違いの描写の複合によって、よりよく豆の特徴を指定しているんじゃないかと。たしかにそのとき飲んでいたコーヒーの酸味はレモンのような狭く鋭い特性を持ってはいなかった。
*
こうした感覚的な質の分析はワインで有名だろう。ワインの風味はさまざまな果実や花や他の食品に喩えられてきた。コーヒーの官能評価もこの歴史的なワインの評価システムを流用したものだ。しかし実のところぼくが知りたかったのは、なぜ、ある物体の味わいを他の物体の味わいで喩えるのか、ということだった。
喩えないで済ませることができるのかと仮定すれば、それはかなり難しいということがわかる。喩えのない言葉はいっそう抽象的になる。先ほどレモンについて述べたように、レンジが狭く鋭い柑橘の酸味と言っても、たとえばスダチとの違いをどう表現すればいいのかわからない。はっきりと像を結ぶような具体性を言葉にまとわせるために、他の物体が持ち出されるということだ。
喩えること自体が面白いわけではない。ある香りや味わいを言い当てようとして奇形的に沸き立つ言葉の数々が面白いのだ。
複合的な感覚をバラバラの要素に分解してそのひとつひとつを「感覚素」とでも呼ぶべき他の物体で喩える(バナナやレモンというように)。こうした感覚素の枚挙によって当の対象の香りや味わいをあらためて再構成すること、「感覚素群の配置」によって理解すること。
他とは異なるこの孤立した感覚を言い当てるために仮当てされる感覚素。たとえばある系統の白ワインの味わいや香りを喩える場合、洋ナシやバターはとりあえずそれ以上分解しない感覚素になるわけだ。しかし洋ナシ農家やバター生産者に言わせればそれ自体複数の感覚素の複合体となるだろう。
とすると、他の対象の感覚素に過ぎない対象もそれ自体分析の対象になりうる。いま嗅いでいるこの香りは、他のさまざまな物体が持つ香りの複合体であり、他の物体が持つ香りの感覚素でもありうる。いま嗅いでいるこの香りは、かつて嗅いだことのあるさまざまな香りの複合体であり、これから嗅ぐだろう香りの感覚素である。
とすると、世界の香りや味わいは巡り巡って互いを部分的に反映することになりはしないだろうか。感覚器官の限界と世界を構成する物質の有限性が、嗅味覚世界を「比喩的連続体」にしている。
*
しかしこれはあまりに豊かさを基調とする世界像かもしれない。閉ざされた嗅味覚世界もまたあるだろう。これがこれでしかない。喩えることのできない孤絶した香りと味わい。そこでは世界はバラバラで比喩は成り立たず、連続性も成り立たないような。
ともあれそんな嗅味覚世界を、嗅味覚といってもこの「味」は「風味」を想定しているのだから、とりわけ嗅覚に偏った世界を、ぼくは愛好している。
いつも世界には鮮烈な香りがあった。