『人類が消えた世界』アラン・ワイズマン
ハヤカワ文庫 2009/7/5
この瞬間に地球上から人類が消滅したら・・・
いたるところに植物がはびこり、動物達がまた自由に息を吹き返し、町を闊歩し、NYのビル郡は鳥達のねぐらになり。そんなの最高じゃないか。そうなってほしい。
10年前に出版
たまたまだが『ファクトフルネス』と並行しながら読でいた。まだ『ファクトフルネス』は6割しか読んでいないからすべて読み終わったらまた違う感想をもつかもしれない。『ファクトフルネス』はデータの新しい分析軸を提示しつつ「実は世界はどんどんよくなってきている」と世の中に希望を与える本だとおもう。人類はさまざまな問題を解決してきた。これが2019年現在の話。一方『人類が消えた世界』は2009年に出版されている。当時の世相を反映した本だ。おそらく当時は『環境汚染』『原子力(放射能)』など、地球が破壊されていく、人間は罪深い、という思想が主流だったころ。ビニール製買い物袋などのプラスチック製品、ダイオキシン問題、ニッポニアニッポン(トキ)、イリオモテヤマネコなどわたしも胸を痛めていた時期があった(2009年当初というよりもっと昔だった気もするが)。
もうひとつ『サピエンス全史』を思い出す。『サピエンス全史』は「人間」視点で文化や営みの変遷、社会がどのように発展し人間がどのように社会性を獲得したかというのを、ヒトになったばかり(なりかけ?)の7万年まえからさかのぼる。一方『人類が消えた世界』は「人間」ではなく「地球」視点だ。恐竜が生きていたころまでさかのぼりやがて地球が滅亡するまでをイメージする。人間の幸せではなく人間以外の生命、動物、植物、地球を考える。ほんの100年、200年前までは地球はどのような姿だったのか。
生命力のつよさ
この本の面白いと思わせるポイントのひとつは、自然の強靭さをさまざまな例であげているところだとおもう。たとえば植物、人間がいなくなって放っておかれた町では1年後にはアスファルトには隙間ができて花が咲き、数年後には建物の壁は崩れツタ植物に覆われる。いずれは植物に飲み込まれてそこに何があったのかわからなくなってしまう。たとえば石、人間はコンクリートという扱いやすい石を見つけてそれで今は建物をせっせと建てている。しかしそれも人間がケアをしなければいずれはすべて崩れ去ってしまう。コンクリートで作られたビル街もすべて朽ち果てる。残るものとしたらハリウッドの石像のように天然の石をつかった建造物だけだ。だから古代の建物はたちはいつまでも遺跡となって残っているのだ、などなど。いま現代文明が手に入れたさまざまな便利なものは人間がケアをやめたとたんにすべて自然の驚異の前では崩れ去ってしまうという。
読んでよかった
たしかに人間の世の中はよくなっているのかもしれない。でも10年前の時点で地球にばら撒かれていたさまざまなプラスチックゴミや人間がつくった放射性物質貯蔵庫はいまどうなっているか私は知らない。見知らぬ国から流れ着く海岸のゴミのニュースもなくなったわけではない。上海の経済成長にあわせた大気汚染のニュースには慣れてしまっている。
人間が消滅しても永遠に残って地球に影響を及ぼしていくプラスチックや放射性物質たち。いずれはプラスチックを分解するバクテリアもでてくるだろうし動植物たちもいずれは進化して放射線に対応した生命体になるのだろうとは本書では書いてあるが、希望があるのか絶望なのかわからない。ただ私としてはいま目の前にいるさまざまな動物達や植物達が幸せな状態でいてほしい。その生を全うしてほしい。これからはゴミはもっと少なく出来るように気をつけるし、なにより希望的観測だけでよい状態になったと勘違いしてはいけない。『ファクトフルネス』も最後まで読んだら世界中のプラスチックゴミが回収できる手段が見つかっていればいいのにと思っている。
消して悲観的な内容ばかりではなく時間軸や視点を縦横無尽に行き来するイメージの大きな本。最後に、訳者(鬼澤忍)のあとがきを引用する。
こうしてワイズマンは、綿密な調査と科学的知見に、もとづくさまざまなシナリオを展開していく。これらはとても興味深いもので、好奇心に導かれて読み進むうちに多くの発見に出会うはずだ。やがて、人間と自然のかかわりといった大きな問題についても、思い巡らせることになる。読者が本書をおおいに楽しみ、そうした経験を味わって頂ければ幸いである。
写真はラシュモア山の写真はWikipediaから。それ以外は全て文庫を撮影したもの。