ながいつぶやき#1
駄文でござる。
寒いのが苦手だ。今年は随分と暖かい日が続いていたので、すっかり暖冬気分だったが、11月の後半から急に寒くなってきた。そんな帳尻合わせみたいなプレイはやめていただきたいのよ、神様。12月に入ってちゃんと冬になるあたりのやっつけ仕事、勘弁してください。
今年の4月から京都芸術大学通信教育課程美術科写真コース(←何回も書くけど長い!)で学んでいることは何度かお伝えしているのだが、2回目の大学生活はかなり面白い。
いや、誤解を招く文章で申し訳ない。決して1回目の大学生活が面白くなかったわけではない。むしろ逆にスゲ〜面白かったと言ってもいいだろう。が、この話はまた別の機会に、気が向けば書くこともあるかもしれないということで…
とにかく2回目の大学生である。正確にいえば50代半ばのおっさん学生である。カッコつけて「社会人大学生」とかいう表現もあるらしいが、それだと幅が広すぎるのでおっさん学生でいいだろう。通信制だから毎日大学へ行くわけではないが、平日は普通に工場で働くおっさんが大学に籍を置いているわけで、この国では割と珍しいことになるらしい。
3年次編入で最短2年で卒業することができるのだが、個人的にそんな気はさらさらない。だって写真を含めた芸術や美術をちゃんと学びたいと思ってきたのだから。
芸術史、詩学、哲学etc 学びたいものは無限に立ち現れる。後悔するとすれば、若き日に無理をしてでも勉強しておけばよかったかな? くらいのものだが、過ぎちまったものはしょうがねぇ。
しかしなぜ、数ある芸術表現の中から「写真」を選んだのか。というところを今回は自分なりに振り返ってみようと思う。どこまで遡って振り返ろうかと思ったが、やっぱり写真に初めて興味を持ったところからだろうか。
実は小学生の頃に一度、写真に目覚めかけたことがあった。カートリッジタイプのフィルムを使用する簡単カメラ。11歳の誕生日に、母親を強烈に説得してやっと買ってもらった[ポケットフジカフラッシュAW]。新宿の淀橋カメラ(現・ヨドバシカメラ)で、自分でも使えそうなカメラを選んだのだが、なんせ子供である。
カメラさえあればポスターみたいな綺麗な写真が撮れると思っていた私は、撮っても撮っても思い通りに綺麗に写らないことで写真に対する興味を失ってしまった。
ポケットカメラで綺麗に写るはずがないのは今ならわかりすぎるほどわかるのだが、当時の私は「自分には写真の才能がないんだな」と考えるようになり、せっかく買ってもらったカメラも机の引き出しに仕舞われて出番をなくしていったわけである。そして私は写真が大嫌いになり、写真を撮ることも撮られることも、ましてやカメラを触ることもなく、多感な10代を過ごしたのだった…
その後、映画に興味を持った私は、大学進学時に芸術系の大学進学を考えたが、チョー貧乏で「授業料を全部自分で払いなさい」という家庭の事情により、授業料が高額な芸術系大学への進学を諦め、普通大学の経済学部へ進学した。当時、映画を学ぼうと思えば大阪芸術大学映像学科か日本大学芸術学部映画科くらいしかなく、専門学校で日本映画学校(横浜放送映画専門学院)くらいで、とにかくどこを選んでも授業料が払えないという現実に、泣く泣く諦めたという次第。ちなみに40年近く前に年間150万とかしてたと思う。勉強嫌いが祟ってバカ高校に席を置いていたので、国立なんてハナから無理な話であった。
結局、普通大学の経済学部へ進学するも、そこで映画研究会というクラブに所属し、勉強そっちのけでバイトと映画に明け暮れる日々が始まる。
この大学時代に、私は今までの狭い価値観や偏狭な思考を完全にぶっ壊して、かなり自由な人生観を手に入れることになった。後々に大きな影響を受けるサブカルチャーへの傾倒もこの頃から始まっているし、読書量(漫画含む)、映画鑑賞量、音楽鑑賞量は飛躍的に上昇し、写真以上に大嫌いで苦手だった作文(論文)は、「論文指導」という講義を受けて苦手意識を払拭するきっかけになった。教授の赤ペンが入った課題の原稿は今でも押入れの段ボールのどこかにしまっているはずだ。noteに長文書いても平気でいられるのはその講義のおかげと言っていい。
ついでにかつて某映画館で日本映画監督特集という企画があり、映画館で配布される「映画新聞」に柳町光男監督の紹介を書いて、訂正なしの一発採用をいただいた時には驚いた。制限字数を大幅に超える長文で、絶対削られると覚悟して編集長に読んでもらったのだが、彼が最後まで読んだ後、しばらく間があって「文字の大きさを調整すれば紙面に載せられるから」と言ってもらえた時の嬉しさは今でも忘れない。作文が苦手だという意識はこの時に克服できたのである。
ここまでほぼ写真の話が出てこないとお嘆きの貴兄・貴女。思ったよりも長文になってしまうので今回はこれにて失敬。
半世紀以上も生きてると、何にもないようでいろいろあるということが再認識されただけでも良しとして、この続きは近日中に、またいずれ。