見出し画像

記憶というのは曖昧で

何も見ずに作れるごはん、いくつあるんだろう。
もし手元にレシピが全てなくなって、調べる術さえ無くなってしまったら。
大好きなものも思い出のものもどこかあやふやで、きっと作れなくなる。
想像したらすごい無力感。
結局は身一つ、最後に頼れるのは経験だけになる。
「覚えよう」の意識、大事。

いろんな料理作ってみよう、のフェーズは終わったようで、レシピを見て作る完璧な100種より、その日の体調とか感覚とかで作る20種の方が今はほっとする。
そしてなにより数字を覚えるのが苦手だから、大さじ小さじグラムミリリットル全部覚えられない。
鼻歌歌いながらこんなもんかなーって作れるくらいのものが好き。


料理以外のことも。
書くことが好きで、思い出だったり勉強だったり、ノートにたくさん書いてるけど、それが燃えてなくなった時に何も自分の中にないのはとても悲しい。
見返さないと思い出せない年号とか、正確な旅行の日付とか、きっと私には必要ない。
そうじゃなくて古くからある話とか、旅行先での景色と匂いとか、経験ををちゃんと知恵にすることが多分私のやりたい生き方。

日々の全部を五感で感じて、科学のなかった古の人たちみたいに、地球とか宇宙とかと会話するように作ったり暮らしたりていきたい。

これも、「自分する」ってことになるのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?