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石崎光瑤「燦雨」うれしくて 泣いちゃうような 春の雨
降ったりやんだりの春の雨の中、南砺市福光美術館へ。大好きな石崎光瑤の、春の展示を見に行った。
冬に「雪」という作品と出会ってから、私は彼に夢中だ。日本画って、デフォルメや理想化する感覚が気になってしまう事が多くて、推しの画家が居なかった。だけど彼の作品は、ストーンと腑に落ちるストレートさを感じる。だから大好き。
彼の線は、美しいものの本質を捉えている。「雪」ならば、雪の日のしんとした空気や、木の枝からボタボタっと落ちてくる雪。胡粉で厚く塗られた岩絵の具が、雪そのものの触感をあらわす。ああ、たしかに、雪だなあという、雪の本質。
どうしても見たい作品があった。「燦雨」という屏風絵。インドへの旅での彼の体験が、ギュッと昇華したような眩い光の中の雨の風景。
孔雀が2匹。気持ちよさそうに雨を浴びている。赤いフワフワの花が風に揺れ、色とりどりのオウムが、まるでこの瞬間を祝福するかのように、舞い踊っている。
石崎光瑤は、例えば桜の花を一輪一輪くっきり細かく描写した上で、桜の木全体を自然に表現できるような、すごいバランス感覚の持ち主なのだけど、「燦雨」ではモチーフを細かく描写していない。
あくまでも、彼が描いたのは雨だ。孔雀や花やオウムを通して、熱帯のスコールを描いている。
明るい空から降る、突然のスコール。ものすごい勢いで、世界が濡れ、輪郭がぼやける。
ぼやけた世界で、光は、燦然と輝く。砂ぼこりは払われ、生き物たちは恵みの雨に安堵し、喜びを爆発させているかのよう。
光、雨、風。実体がなく、常に変化していくもの。まるで自分も、熱帯のスコールを浴びているかのような気分になった。神様からの恵みのような、濃密な鑑賞時間でした。
見える世界を、これ程までに美しく一変させてしまう雨。
きっと彼は、インドの旅の中で、こんな風に世界がキラキラと輝いた瞬間を、何度も目撃してきたのだろうな。見て、心が動いて、それらを貯めて、日本に持って帰って、岩絵の具で描ききった。いや、描ききったという感覚では無かったのかも。捕まえようとしても、捕まえきれないような光のきらめきを、必死になって追いかけて、その結果ポンッと生まれてきたような感覚を感じた。
雨。
雨が世界を一変させるような事がある。
天気雨の不思議な感覚や、雨上がりにグッと晴れ上がった時の空の高さ。虹が出た時の高揚感。
いきなり真っ暗になり、大嵐が襲ってくることも。
自分ではコントロール不可能な天気という現象に、人間は少なからず左右されている。
そして天気が、まるで自分を祝福しているかのような気持ちになる事がある。世界中の全てが、私の見方です!!と、物語の主人公になったような万能感。そんな幸せな気持ちは長くは続かないけれど。忘れる事のできない人生のハイライトとして、記憶に残る。
美術館からの帰り道、南砺なのか砺波なのかわからないけれど、一面のチューリップ畑の横を通り過ぎた。
ちょうどその時雨が止み、雲の切れ間から燦々と輝く太陽が顔を出した。
ピンクや黄色のチューリップが、そよそよと風に揺れ、雨粒が光り輝いていた。
遠くに来たんだな。
去年の今頃は知らなかった、生まれて初めて見るチューリップ畑の横で、私が見たもの。それは、石崎光瑤が描いた雨や風や光と同じような、実体のない希望のようなものだった。
私にとっての燦雨。新しい生活を祝福されているような、春の雨の1日だった。