鬼
「鬼が子どもをさらっていくから夜は外に出たらアカンよ」
物心がつく頃から両親に吹き込まれ、奈良の幼少期は毎晩8時までに寝ていた。幼稚園では「鬼は外、福は内」と豆をまかされたが、夜ふかしが許され、外で自由に遊べる鬼が羨ましい。だから御伽話では鬼に勝って欲しかった。
令和二年1月10日、新宿から夜行バスに揺られて13時間。朝6時半の米子駅。すぐに大山寺行きの市バスに乗り換える。夜が明けてくる車窓の彼方に伯耆大山のシルエットが見えた。
3年間お世話になったIT企業を退職し、転職先の仕事が始まるのは1週間後。いまは独り鳥取の山にいる。贅沢を噛み締め、登山靴の紐を結び直した。空は真っ白。きっと頂上は吹雪いている。危険な登山になるかも。そんな恐怖を餌に山頂を目指す。
登山口に向かって歩き始めると、後ろから「すみませーん」と声をかけられた。「登山口ってどちらですか?」
同い年くらいの女性。自分と同じ赤いウェア。装備は雪山仕様で初心者ではなさそう。けど、いきなり道を聞くって、地図や登山アプリも無いのか?
「う〜ん、そうだと思いますよ」とぶっきらぼうに返すと、続けて喋りかけてきた。どうやら一緒に登りたいらしい。
旅の縁は大切にしたいが、対話したいのは伯耆大山。一緒に登る人は直感で決める。何も言わずスピードを上げ登山道をアッパーカット。すぐに女性は見えなくなった。
山頂に近づくと、そこは氷の世界。強風とホワイトアウトで眼鏡は凍り、地図アプリが入ったiPhone8は寒さで死んだ。やっちまった。ゴーグルや紙の地図を持ってこなかった自分も雪山を舐めている。
なんとか遭難せずに下山して390円の豪円院湯へ。豆腐と蕎麦、ソフトクリームを食べてバス停でほっこりしていると朝の女性が下りてきた。かなり憔悴している。こちらをチラッと見て眼が合った。お互い声はかけなかった。