HEAT
「旅とは風景を捨てること」そう語ったのは寺山修司だった。石井慧の格闘技は得るのではなく、捨て去る旅なのかもしれない。
2015年から16年の石井はMMAでイリー・プロハースカ、クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン、キング・モーと3連敗。淵に立つなか、RIZINグランプリ(2016年無差別級トーナメント)で優勝したミルコ・クロコップに「習いたい」と連絡した。
自分よりも優れた技術がある人に教えてもらうことに抵抗はない。自分をどん底に追い込んだ相手でも、意地を張ることなく素直に受け入れて教えをこう。柔道を捨てても石井慧の中で柔の精神は息づいている。
2019年には拠点だけでなく日本人からクロアチア人に帰化。孤高のヴァガボンド(放浪者)は国籍まで捨て去った。果たしてどんな想いだったのか、直に訊いてみたい。
師匠のミルコが格闘家引退を表明した2019年3月2日、石井は名古屋を拠点とする格闘技団体『HEAT』に参戦。名古屋国際会議場でブラジル人のHEAT総合ヘビー級王者カルリ・ギブレインを相手に5分5RのHEAT総合ヘビー級選手権試合に挑んだ。
2年ぶりに石井慧のMMAを観ようと前夜に東京から深夜バスに乗り、早朝の名古屋駅へ。熱田神宮や名古屋城のシャチホコを眺めたあと会場に向かう。
メインイベンターの石井はクロコップチームとして入場。石井はいつも己を鼓舞するでもなく、ただ静かにリングに向かう。プロとして派手なパフォーマンスを見せる気概ではなく、神聖な道場へ向かう虚無僧のようだ。
カポエラやキックボクシングをバックボーンに持つカルリ・ギブレインは得意の打撃で攻めるが、石井は組技でテイクダウンを奪い終始圧倒。
次のラウンドに持ち越すものの実力差は明らか。
2ラウンド3分54秒、V字アームロックで勝利。1ラウンドにギブレインが反則のヒザ蹴りをしたことで、古傷の首に響いた石井は珍しく怒りをあらわにし、対戦相手に向かって「ファック」を連呼。それでもマイクで名古屋のファンに感謝の気持ちを伝えると、控室に戻る花道では10分以上ファンサービス。
写真撮影を求めるファン全員とツーショット。師匠の引退に花を添えられた安堵、そして石井なりの不器用な歓喜の舞だったのかもしれない。
その後はポーランドの総合格闘技団体「KSW」やアメリカの総合格闘技団体「PFL」を転々とするも勝ち負けを繰り返す。やがて2020年に世界がコロナの猛威に屈し、自身もウイルスに感染したあと石井慧が選んだのはK-1の舞台だった。世界が変わってもヴァガボンド(放浪者)の生き方はぶれない。