谷川岳と一ノ倉岳
映画ファンにベストムービーがあるように、クライマーにも人生のベスト登山がある。トップ・オブ・トップが令和元年3月9日の谷川岳。
「本当のピークは山頂の先にある」
これを胸に刻み込んだ、会心の登山となった。
世界最高のスポーツイベントSuper Bowlが2月1週に行われるように、登山のベストシーズンも厳冬期から残雪期。この時期の雪山は妖しく、眠れる美女となる。
日本の中で雪肌が最も美しい山が谷川岳。先輩は「山で死ぬなら谷川岳」と来るたびに、その魅惑を語る。
谷川岳の中でも日本三大急登に数えられるのが西黒尾根。バベルの塔のように天に伸び、その傾斜は下山するには多少の度胸がいる。
急登が大好物の自分はピッケルとNikonのミラーレスを両手に意気揚々と登る。憧れの西黒尾根に疲れは感じない。休憩中のコーラが五臓六腑に沁みる。急登こそ我が人生。
まずは標高1977m「オキの耳」に到着。谷川岳の山頂を示す標識が埋もれている優越感がこの時期の登山。しかし今日は、ここからが本番だ。
標高1974mの一ノ倉岳。世界最多の遭難事故を誘い、谷川岳が「魔の山」と呼ばれるのは一ノ倉沢の存在があるからだ。標高はオキの耳より低いが峻険な岩壁が人を拒む一ノ倉は神の座とされ、山上に詣でた人々が賽銭を谷底に投げ入れたことから「銭入れ谷」とも呼ばれる。それはロッククライミングの話で、頂までの登山道は危険な場所ではない。だが、その轍の美しさ、人がいなくなる無人山の存在感は日本屈指。
もともと谷川岳は「俎嵓(まないたぐら)」を指し、現在ではトマの耳とオキノ耳を主峰としている。しかし、一ノ倉岳こそが谷川岳である。オキノ耳から1時間を歩いてこそ、本当の登頂。
しかし、西黒尾根の急登に脚とスタミナが奪われ、シャリバテになりながら歩を進める。先輩は不思議とスピードが落ちない。アイゼンで雪を噛む音が、先輩の山の軌跡を胸に反響させる。一緒に登った数十回の登山の何倍もの修羅場を削り、今を勝ち取ってきた。
「久しぶりの一ノ倉のおかげでゾーンに入ったよ」。同じセリフを言えるクライマーになりたい。
一ノ倉岳まであと数メートル。眼前に頂上が現れる。栗城史多さんが言っていた「登山で一番感動する瞬間は、あと数メートルまで来たとき」。全く同じ感情が起こる。初めて栗城さんの感覚と同化できた。
ヴィクトリーロードを登りきり、一ノ倉岳に到着。三角点は雪の下。たぶん、ここで合ってるだろう。目の前に広がるのは越後湯沢の町並み。スカイハイ。
「この景色を見せたかったんだ」
先輩がつぶやいた。
上州と越後をつなぐ国境の絶美は一ノ倉岳の山頂に立たないと見られない。
「本当のピークは山頂の先にある」
人生最高の登山を終え、あとは天神尾根を下り『諏訪峡』へ向かう。西黒尾根を下る気力はない。それに、この景色を霞ませたくない。我々を日本で一番美味しいダムカレーが待っている。