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時の傷跡

五輪のプレッシャーなんて屁のツッパリにもなりません

2008年の夏、石井慧が日本列島を照らした北京オリンピックの光彩から6年が経っていた。同じ清風中学・高校を母校にもつ石井は金メダルを獲得したあと柔道からプロ格闘家に転身。一方の自分は2009年にカー用品の会社を辞めミニストップのアルバイトをしながら極真空手の全国大会を目指す日々。20代を地元・奈良での仕事に費やした。格闘技を観る余裕はなく、2013年に週刊プロレスの記者を目指して上京したとき、石井はアントニオ猪木が会長を務める団体『IGF』を主戦場にしていた。

2014年8月23日。石井慧はクロアチアのミルコ・クロコップを相手にIGF王座防衛戦を行った。文筆の経験も東京にコネもない30歳を迎えたオールド・ルーキーの自分は週刊プロレスはもちろん、他のスポーツメディアにも雇ってもらえず、唯一、経験を問わないスポーツニッポンの校閲部でアルバイトを開始。

7ヶ月間のニートで貯金は底をついていたが、なぜか両国国技館に向かった。大方の予想は全盛期を過ぎた40歳目前のミルコに対し、27歳と若さに勝る石井の防衛。

しかし、寝技の状態で下から肘打ちを受けた石井は流血し、あっけなく2ラウンドでドクターストップ。7,035人の観客の多くが不甲斐なさに呆れかえった。2階席で観ていたニートの自分もその一人。

「たいしたことねえな」

それが国技館から持ち帰った印象だった。

同じ年の大晦日、石井は同会場でミルコにリベンジマッチを挑んだ。10月からスポーツニッポンの校閲部でアルバイトをはじめた自分は会場には行かず、年が明けてテレビ放送で観戦。

結果は無残な返り討ち。2R終了間際に左ハイキックを受けた顔は、またも血が噴き出し、3ラウンド開始のゴングが鳴っても立ち上がれず。再びの醜態。

リング上でうなだれるその表情に元金メダリストの面影はなく、呆然とするアップがモニターに映し出される。

格闘家に転向せず、柔道にその身を捧げれば、五輪の貯金で将来が約束されていた。日本の柔道界を背負う男して期待も大きかった。それを石井は投げ捨てた。その覚悟を格闘技は残酷にも弾き返した。

それでも石井慧はリング上で静かに立ち上がった。顔面を鮮血に染めながらも前だけを向く。傷だらけの顔、一点を見つめる眼光。その孤高は柔道のオリンピック王者より輝いて見えた。

負けた人間は葬り去られる。しかし石井慧は負けながらリングに上がり続ける。これまでの物差しにあてはまらない。成功している人間、勝ちまくる人間、どれも当てはまらない。失敗に厳しい日本という土壌から自由だ。その生き方になにがあるのか?今までの生き方、価値観とは違うものを石井慧は背負い投げしている。何をしようとしているのか?己に何を問うているのか?石井慧の闘いは自分にもなにかを問いかけてきた。

北新宿のアパートでiPhone5Cを取り出し、Twitterに打ち込む。

「石井慧こそ野武士である。金メダルを血に染めてなお、立ち上がるその姿は誰よりも美しい」

ツイートは誰からも反応がなく、単なるひとり言として膨大なSNSの中に埋もれていった。しかし1月20日、新宿中央公園を歩いていると突然TwitterにDMの通知。開いてみると石井慧からだった。

「はじめまして。松田さんの言葉に元気を頂きました。ありがとうございます。僕は何度でも立ち上がり、諦めず闘います」

夜空のむこうにオリオン座が光っていた。

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