中国史小話集⑧
【北宋中期の党派抗争】
北宋の時代、法改正を試みた新法派と、旧法を維持しようとする旧法派の争いがあった。新法派の首魁は王安石、旧法派の筆頭は司馬光である。王安石が失脚し、実権を握った司馬光は、すべてを以前の状態に戻そうとし、法適用の切り替えで大いに混乱を引き起こした。その後、王安石と司馬光が亡くなってからも両派の争いは続き、政権が交代するたびに法の適用がコロコロと入れ替わり、混乱が続いた。そのうちに、両派の争いは理念そっちのけの権力闘争となり、これによって北宋は大いに国力を落としてしまったという。
政権交代は悪ではないが、上記のような混乱を生むならしないほうが良い。
【雲崗石窟】
中国・大同の雲崗石窟は北魏時代(5世紀頃)から造営が始まる。特に、曇曜五窟と呼ばれる5つの石窟は北魏の最初期に造られたもので、居並ぶ大仏は仏であると同時に皇帝の肖像でもあった。これは当時、「皇帝即如来」という考え方があり、仏教に基づき皇帝が如来として衆生を統治するという考え方があったためである。
北魏は三代太武帝の時代に廃仏を行っているが、その後、庇護に転じ、仏教を統治の根底においた。河西回廊の平定で、西域文化が流入したのも大きいかもしれない。なお、曇曜五窟の曇曜とは僧の名で、彼は北魏初期の仏教界で重きをなし、雲崗石窟造営を指揮したとされる。
【「細君」の初出】
東方朔は中国・西漢(前漢)の武帝に仕えた政治家である。多くの逸話を持ち、後世には仙人と見做された人物である。
ある時、武帝が廷臣たちに肉を下賜したことがあった。ところが、いくら待っても係の役人が来ない。業を煮やした東方朔は、剣を抜いて自分の取り分を勝手に切って持ち帰った。
翌日、東方朔が出仕すると、武帝は昨日の行いを咎めた。武帝は東方朔に「己を責めてみよ」と命じた。東方朔は己を責めるふりをして、逆に己を褒めてみせた。武帝は大笑いし、改めて東方朔に肉を下賜した。この時、東方朔が自分の妻を細君と表現したのが、「細君」という語の初出とされる。
【陸賈のこと】
中国の秦末漢初、楚漢戦争の時代に遊説家として外交交渉を担った陸賈は儒者で、漢の初代皇帝の劉邦に仕えていたが、事あるごとに四書五経の講義を行った。劉邦は大の儒者嫌いで、ある時「儂は馬上で天下を取ったのだ。そんな講釈いるか」と怒鳴った。しかし陸賈は「馬上で天下は取れても馬上から天下は治められますまい」と言って劉邦を黙らせてしまった。
その後、陸賈は下野して悠々自適の生活を送っていたが、劉邦の皇后・呂雉が崩御すると、外戚・呂氏を排除するべく動き、左右の大臣でありながら、当時仲が悪かった陳平と周勃の仲を取り持っている。
南越王の趙佗と仲が良かった。