賀茂忠行について
賀茂忠行は平安時代中期の公家で、陰陽師として活躍した。最終的な位階は従五位下・丹波権介で、占術家としては覆物の中身を当てる射覆を得意としたという。子の保憲とともに陰陽師として知られ、安倍晴明の師でもあったと伝わる。
日本の陰陽道史では重要な人物で、陰陽寮において専門家がそれぞれ分担していた天文道・暦道・陰陽道を自身で一手に掌握したのである。これが賀茂・安倍両家による宮廷陰陽師職の掌握に繋がる。なお、天文道宗家は保憲によって安倍晴明に譲られている。
賀茂忠行が陰陽寮の三部門を独占するに至った背景には、遣唐使の停止により中国の最先端の思想や技術の伝来が途絶え、既存の知識だけを後継者に教授していく中で閉鎖的な人材育成が行われるようになり、必要な人材が枯渇していたのが挙げられるという。この頃、陰陽寮成立当初からそれに関わっていた氏族の間でのみ人材育成が行われていて、それによる必要人員の減少が著しく、本来は禁じられていた複数部門の兼務がやむなく行われていたらしい。忠行が主要三部門を掌握するに至ったのにはそういう背景があるという。
一方で、忠行は日本における陰陽道の改革者でもあった。陰陽寮の主な職掌が天文・暦であるところから、本来の陰陽師は技術職であったが、忠行は既存陰陽道の背景にある道教の思想や信仰に密教の要素を加え、陰陽道が持つ呪術の側面を強化することに成功したのである。
このあたりはWikipediaの記述に基づくが、当該部分に脚注がなく、出典がわからない。 賀茂氏は大和国葛城(現御所市)の高鴨神社周辺を本貫とする豪族で、一族から修験道の開祖とされる役行者(賀茂役君小角)が出ている。忠行が密教に詳しかったのは、役行者を輩出していることから、賀茂氏(の一部)が古密教に造詣が深かったため、とも考えられるが、どうだろうか。 以上の記述はWikipediaによるもので、細かい部分については裏取りが必要である。もしかしたら村山修一先生の『日本陰陽道史話』で触れられているかもしれないが、今手元にない。
男子が4人いるが、保憲と保遠は陰陽師となり、保胤と保章は文章家となっている。『日本往生極楽記』で知られる慶滋保胤がこの保胤なのだが、彼が陰陽師・賀茂氏の出身であることは意外と知られていない気がする。
〔参考になりそうな本〕