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中国史小話集⑥

【曹丕の同母弟たち】
中国・三国時代の魏の事実上の建国者・曹操と初代皇帝・曹丕の諸子は『三国志』魏志の「武文世王公伝」にまとめて立伝されているが、曹彰・曹植・曹熊の3人は独立した伝がある(「任城陳蕭王伝」)。なぜこの3人が特別扱いされたかというと、曹丕の同母弟であること、曹彰は軍事、曹植は文才に秀で、特筆すべき事績が多かったことが理由だと思われる。なお、曹熊は早世している。
曹操の本来の長子は曹昂だが、彼は曹操が張繍に大敗した際に討ち死にしている。それに加え、曹昂の生母が亡くなり、曹丕の母が嫡妻となったことで、曹丕が嫡子となった。曹操は曹植の文才を愛していたが、賈詡の諌言を受けて曹丕を後継者に指名している。
曹操の想いが曹植に傾いていた頃、それを感じ取った曹植の家臣は曹丕の追い落としを画策して盛んに中傷を行ったようで(その筆頭が丁儀)、結果、曹丕の弟に対する覚えが悪くなり、曹植は無駄に転封を重ねられる不遇な生活を送ることとなった。
曹丕のすぐ下の弟、曹彰は馬術・弓術に優れ、軍事の才に溢れていた。しかし、曹丕が皇帝になると、それ故に警戒され、冷遇されるようになった。
曹操の臨終に際して、長安に駐屯していた曹彰は早馬で洛陽へ呼ばれたが、臨終には間に合わなかった。洛陽に到着した曹彰は魏王の印綬の在処を尋ね、諸事を取り仕切っていた賈逵に「あなたの知るべきことではない」と叱責されている。個人的には、これも曹丕の機嫌を損ねる要因になったように思われる。
曹丕が皇帝に即位すると、任城王に封じられた。
223年、洛陽滞在中に急死した。30代前半という若さである。そのため、曹丕による暗殺説も囁かれている。

【名将センゲリンチン】
センゲリンチンは中国・清代後期の軍人である。モンゴル出身で、チンギス・ハンの次弟ジョチ・カサルの子孫という。
太平天国の乱、アロー戦争で活躍したが、アロー戦争では英仏連合軍の北京侵攻を許してしまい、爵位を失った。
捻軍が蜂起するとその鎮圧にあたり、首領の張楽行を討ち取ったが、張楽行の甥の張宗禹が再起したため、引き続き討伐にあたった。
センゲリンチンは敵軍を追い詰めて殲滅させることを旨としていた。そのため、常に軍は疲弊しており、兵の疲労を理由に撤退命令が出される程であった。
しかし、命令が届く直前、山東省曹州で敵軍の包囲を受け、部隊は全滅、センゲリンチンも戦死した。この時、センゲリンチンは日頃の疲れから深酔いしてしまい、敵軍の襲来に気づくのが遅れたのだという。
同治帝と西太后はセンゲリンチンの死を悼み、政務を3日間停止して「忠」の諡号を贈った。そして、彼の縁の地に「忠親王廟」を建てて祀るよう命じた。

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