中国史小話集⑫
【孔融】
孔融は中国・東漢(後漢)末期の政治家で、孔子の20世孫に当たる。
子供の頃から頓智が働き、当時一流の儒学者で清流派官僚の筆頭だった李膺に認められた。
徐州牧の陶謙が父の敵として曹操に攻められた(曹操の父・曹嵩は、曹操のもとへ向かう途中、陶謙が護衛のために遣わした張闓という男に殺害された)際は救援に駆けつけ、陶謙が亡くなった際には劉備を後任に推挙している。
曹操が袁紹との対決を表明した際は反対に回り、荀彧に論破された。孔融は剛直な性格で、曹操の方針に度々反対して対立したが、正論より屁理屈を述べることが多く、曹操の怒りを招き処刑されてしまった。
【諸葛瑾と諸葛恪】
諸葛瑾は中国・三国時代の人物で、呉の孫権に仕えた。蜀漢の丞相、諸葛亮の兄である。
諸葛瑾は面長で、五代目三遊亭円楽師匠のような俗に言う馬面だった。ある時、孫権が宴席にロバを連れてきて、額に「子瑜(諸葛瑾の字(あざな)、通り名)」と書いてからかったことがあった。臨席していた息子の諸葛恪は、怒って「之驢馬」と書き加えた。廷臣たちは諸葛恪の機転を賞賛したが、諸葛瑾はその機転の良さで将来身を滅ぼすのではないかと危惧して喜ばなかったという。
諸葛瑾は常々、諸葛恪のことを「家を保つ子ではない」と言って嫌っていた。彼の危惧通り、諸葛恪は政争で謀殺され、家は絶えた。
【程昱の不名誉な逸話】
程昱は中国・三国時代の魏の人で、主に軍師として曹操の覇業を支えた。息子の曹丕にも信頼され、三公に抜擢されるところであったが、その直前に病死した。
このことについて、「かつて曹操の軍勢が食糧難に陥った際に、程昱は略奪を行い食料を確保したが、その中に人肉が混じっていたため、程昱はそれによって声望を失い、ついに公の位まで昇らなかったのだという」という記述が『世語』にある。しかし、盧弼は『三国志集解』の中で「嘘」と記している。
ちなみに『三国志演義』では軍師の面が強調されているが、将軍としても優れた人物であったという。
【評論家・許劭】
許劭は中国・東漢(後漢)末期の人物で、人物批評家として知られた。若い頃、月初め(月旦)に従兄らと人物批評の会を開いており、そこから人物批評のことを「月旦評」と言うようになった。
彼に称賛された者は出世し、そうでない者は没落したといい、彼がかなりの影響力を持っていたことがわかる。
曹操は若い頃、許劭に人相を見てもらい、「治世の能臣、乱世の奸雄」と評され「大いによし」と喜んだという。
蜀漢の劉備に仕え、諸葛亮に次ぐ高官となった許靖は従兄にあたるが、許劭は許靖と仲が悪く、人物談義をする際は常に許靖を黙殺していたという。そのため、魏の蔣済には批判されている。